(28) 瀬戸大橋架橋20年、中橋架橋100年祭より30年 - よもやまばなし

(28) 瀬戸大橋架橋20年、中橋架橋100年祭より30年
2008/5/1

 今年(2008)の4月10日が瀬戸大橋架橋20年ということで、この橋に関係したさまざまな事柄は、マスコミでは大きく取り扱われ、関係するイベントも数多い。倉敷市は本州側の橋基点でもあることから、特に話題となる事も多い。

 瀬戸内海をまたいで、本州と四国を繋いだこの国家的な大事業であった瀬戸大橋と、並べて「中橋」を持ってくるのは、少々気の引けることだが、倉敷考古館にとってはもっとも身近な橋なので、ご容赦頂きたい。

中橋桁石裏の刻銘

 中橋は倉敷考古館の真正面で、倉敷川に架かる石橋である。現在から言えば131年前の、1877年(明治10)に木橋から現在の石橋に架け替えられた橋である。優雅な太鼓状の曲線を描くこの石橋は、考古館正面の写る写真には必ずセットで入っている橋である。

 この中橋の橋桁は、長く大きな厚板状の大石二本で出来ているが、これを渡すのはかなりな難工事だったようだ。伝え聞くところでは、この架橋工事で桁石が折れ、工事人に死者も出て大変だったとのことである。

 この大石で渡されている橋の下の桁石裏側には、最初に載せたような拓本に見る文字が刻まれている。読み辛いが、次のような内容である。(文中の」は行替えを示す)

 明治十年丁丑」七月架成」備前幸西住」石工藤原伊平」當所住」同補池田源次郎」同児原常三」擔董之」

 実はこの架橋から百年目に当たる1977年(昭和52)に、中橋架橋100年の顕彰がてらの祭りでもしないかという、全く私的に個人で集まった13人ばかりの仲間とその友人や協賛者で、橋祭りなどという、当時としては奇妙なイベントを立ち上げたのである。

 商店主・会社・役所勤め人・写真家・画家・陶芸家・舞踏家・我々のような博物館勤務の者といような、多種多様な人物の集まりだった。各々がその特技を生かした、全くの手作りイベントである。それは同時に倉敷川や、その河畔がつくり伝えてきた歴史を顕彰することでもあった。

 石橋に対し感謝状を作り、画家二人は、陶芸家の作った大皿に、それぞれ中橋を絵付けし、陶芸家によって完成。これらは橋に捧げる物であった。川や河畔の今昔を対比する写真は、写真家が用意し、説明のための歴史的な資料は我々が用意し、拓本は得意な人の手により、これらをもとに橋に近い会場で展示会を催した。集まった人々には、簡単だが下の写真のようなパンフレットも作り配布した。

 11月23日の勤労感謝の日を祭りに定めたのは、橋の100年の勤労に感謝する意味であった。この日橋の上に、通行には邪魔にならぬよう、橋への感謝状と大皿を展示し、橋の正面にある、かつては町役場であった建物で、写真と拓本展もオープン、考古館横の消防車庫前の広場に茣蓙を敷いて、ここで橋に備中神楽を奉納したのである。

 瀬戸大橋のような、目立つ存在ではないが、中橋は、今も姿を変えることなく、倉敷観光の要ともなっている。「瀬戸大橋架橋20年」と聞くと、大橋開通より10年も前だった「中橋架橋100年祭り」を昨日のように思い出すのである。

中橋桁石裏の刻銘

 この時集めた写真や資料を基に、『倉敷今昔写真帳』という冊子を作成したのが、翌1978年、その時から今年が、30年ということなのである。

倉敷考古館日記だより
1977年11月23日 水 晴 風強く初雪が散る

 本格的な冬型、朝8時から祭り準備、10時開始予定だが、神楽が10時近くまで来なくてイライラ。開始合図は観竜寺の鐘、早くから鐘撞き係が行っているが、逆風が強く音が聞こえない・・ともかく予定通り開始。橋に捧げる大皿は、素隠居姿の二人の係りが、舟で橋まで運ぶ手筈、素人船頭なかなか舟が岸に着かず、かえって拍手。女子大生有志の詩吟など、周辺の人かなり集まってくれた。・・・・途中から調査中の塩生古墳の方へ、発掘現場の一人風邪でダウン・・・ここ数日大忙し。

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