(204) エンピの記憶 - よもやまばなし

(204) エンピの記憶
2015/8/15

 「エンピとは何?」 まずこうした質問があるのが当然だろう。おそらくほとんどの方には縁のない言葉だと思う。・・・・ご存知の方と云えば造園関係の方? 自衛隊関係? 案外アウトドア生活の好きな人? 考古学関係者でこの言葉を知る人は、現在では幾人いるだろうか?

70年前、戦災の焼け跡より掘り出して使用したエンピ

 以上の??? 部分をヒントにして何が思いつくであろうか・・・・まわりくどいことは抜きにして、ここに示した写真も、そのように呼ばれたものの一つ。わきにおいている妙な白い線状品はスケールで、石で押さえている位置までが50cm、とするとせいぜい70cm程度の長さの物である。本体は何とも古びて錆びついて、どこかに捨てられているような小スコップ?柄はそのあたりの枝木でも削ったようなもの。

 手元にあった戦前(1945年以前)の国語辞典『言苑』には、「えんぴ」としては「圓匙」があり「陸軍で用いる土工具 小型のシャベル」との説明。これも手元の戦後の『広辞苑』第二版(1971年版)では、「エンピ」は「円匙」として「(エンシの誤読)小型のシャベル」とだけある。

 ところが2008年改訂の第六版『広辞苑』では(エンシの誤読)の後が「陸軍でシャベルのこと」となっていた。何時のほどか「陸軍」が入って、「小型」が消えていた。こうしたところにまで時代反映。インターネットでは 造園用工具で根回し用のスコップとして紹介。また自衛隊の携帯エンピは便利なものなどが、目についた。

 そこで岡山県内駐屯の自衛隊に聞き合わせたら、「シャベルのことを大体エンピとも呼んでいる。隊員だったら皆エンピで通用するようだ。小形の物は別に携帯用といっている。特に形や大きさで区別して使ってないようだが・・・・言葉の由来も知らないが・・・」と次第に曖昧になった 。

 ここに写真で示した代物の本来は、実は戦前、男子中学生だけに課せられた軍事訓練授業科目「教練」の際の用具であり、それは旧日本陸軍兵士の戦場での重要な装備品でもあった。実際の地上戦での戦場では、自分達を隠し、身も守るための「たこつぼ」や塹壕を掘るもの、時には弾丸の防具にもなるスコップは重要な携帯備品であろう。柄と先端部が着脱できる型の、小スコップのこと。それが戦前は「えんぴ」とよばれるものであったといえる。

 ただ中学校の備品は、軍隊の物のように、柄と先が着脱できるようなものだったかどうかは覚えてない。いつも柄がついていた。こうした道具の使用法も教練での授業だったはず。しかし敗戦年(1945年)に中学に入学した生徒にとって、3年以上の上級生は、工場へ動員で、残り生徒は学校が借りた農園へ、畑を整備し芋苗植えだった。教師から「エンピを持って!」の声で、教練ならぬエンピを担いでかなりの距離のあった農園まで・・・岡山市空襲の日まで。

 敗戦から今年は70年、しかし終戦も間近だった岡山市空襲(1945. 6.29)は、市街地の大部分を全焼、中学校の校舎も住まいの寄宿舎も全焼、この前後の事は毎年、昨日の事のような思いでその日を迎えるが、一緒に逃げ帰った友人もすでに、この世の人でない。しかしあの時のエンピがまだここにある。

 空襲後も学校の焼け跡整理が続いた。その途上で廃棄物から見つけたのが、赤錆びて多少ひび割れもある焼け残ったエンピの先端。或いは使えないかと持ち帰ったものが、写真のエンピの先である。まだ地金が生きていた。もろ松の木を削ってつけた柄である。

 その後考古学に携わるようになって、この手作りの生き残りエンピは、かなり役立つ道具であった。だが近年は半ば忘れられ納屋の片隅で、スコップや鍬の陰になっていたが、まだ使用できる道具である。

 このエンピが被災以前に活躍し耕した芋畑については、後日談がある。植えられていた芋は、敗戦に関係なく実っていたはず。学校には、工場から上級生も、予科練にいっていた生徒も帰ってきた。校舎を失った学校側も、あれこれと手配して学年別での授業を早々に開始したのである。こうした中で、上級生がストライキをしたのである。その原因の一つには、あの芋畑から掘った芋を、先生が分けて持ち帰ったということもあったようだ。

 生産した一年生の方は、芋が出来ていたかどうかも分からない。何が事実であったかもよくは分からない話であった。しかしこうした話が出てくるくらい、食料の無い時代の若者のひっ迫した生活。多くの教師にしても、被災者もいれば、生活苦も大きい時代、これが戦後の実態だった。

1949年の岩宿遺跡A地点発掘状況写真。当時 調査の責任者であった明治大学杉原荘介助教授が、 エンピで 断面を削り、土層確認中。同氏のエンピは戦前からの特注品で、より小形のものだったと聞く。また発掘調査では、足にはゲートルを巻き、地下足袋スタイルがスタンダードだった。(写真提供 明治大学博物館)

明治大学博物館蔵の、この頃使用された、こがたスコップ(エンピ)と旗(写真提供 明治大学博物館)

 今一つ、エンピの話が考古学と関わる方の事。終戦後は、農工具も工具も、生活の必需品が大量に不足した時代である。

 戦時中に家庭内の金属の多くが供出させられ、しかも空襲の被災で多くの必要品が失われたことで、戦後の物不足は大変なことだった。

 こうした世情のなかで、東京では進駐軍の放出物資とのことで、エンピが市場にあったようだ。

 戦後の若い考古学専攻の学生にとっては、この道具が、重要な携帯品になったようである。 頭部が着脱できる小型のスコップ。おそらく当時としては、けっして安価なものではなかったとおもう。

 それだけに在京の学生にはこれが、考古学のシンボルでもあったのか?こうした状況から、発掘時に、普通のスコップもいわゆるエンピも、みなエンピと呼んでもいたようである。これが当時考古学と関わったものの意識であろう。しかし今は知る人も無いことだろう。

 こうした話は、明治大学の名誉教授で、今もなおご活躍中の大塚初重先生からお聞きした。このエンピが活躍した、戦後直後の頃、群馬県現在のみどり市岩宿遺跡が、相沢忠洋氏によって発見され、我が国の歴史を大きく塗り替えたことは、いまや常識となった。この岩宿遺跡の最初の発掘調査は1949年、この時初めて学術的調査で我が国の旧石器時代が確認され、しかもそれがA地点と呼ばれた稲荷山側の断面で、上下二層の文化層が確認されたのである。この調査は明治大学の手で行われたのである。

 ここに示した写真は、岩宿A地点で、当時発掘調査責任者であった明治大学助教授杉原壮介氏が、断面をエンピで削る作業中の様子と、其の頃発掘に使われていたエンピである。これらの写真や、その頃の発掘道具は、いまは明治大学博物館で保存管理されている。大塚先生からのご紹介もあって、ここに示した写真は、同館からの提供である。ただ同館での解説ではエンピは「こがたスコップ」とあり、現在の同大学考古学専攻の学生さんにとっても、「エンピ」の由来は過去の物の様である。

 わが家のエンピは、はからずも後に考古学を仕事としたものの手で掘り出され、使用され続けたことで、わが国の旧陸軍と米軍、しかも現在の自衛隊の道具まで結びつけたことになったが、戦争から70年の歳月の後、今また外地での我が国の戦闘が検討されているのを見るにつけ、旧日本軍隊から自衛隊には引き継がれたに違いない「エンピ」は、戦争の実態の真実を掘り起こせと言っているだろう。

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