(29) 小橋が大橋になった - よもやまばなし

(29) 小橋が大橋になった
2008/5/1

 先回は、ここに表紙写真を示した『倉敷今昔写真帳』という小冊子を、30年前に奇妙な仲間で作った話だったが、実は次に示した写真はその冊子中の一枚である。この写真帳は今昔の名前のように、主に倉敷川周辺で、古く写されていた写真と、当時(1977年)同じ位置と思われる地点を写した写真を並べ、その姿の変化・不変化を見てもらう形になっている。

1977年作成 『今昔写真帳』の表紙

上・1930年頃の小橋

中・2008年の現児橋

下・同・逆位置から見る正面・小橋、左中橋

 古い写真の主なものは、先の(23)回で話題にした中村昭夫氏が、1977年の当時からみて丁度20年前である1957年頃に、数多く倉敷の各所を写していた写真から選んだものであったが、より古い珍しい写真として、倉敷紡績(現クラボウ)のかつての社長であり、また大原美術館の創始者でもあった大原孫三郎氏が、明治時代も後半の頃、自らシャターを切った写真を、大原家に残るアルバムから複写さしていただいたものである。

 古い写真に対比した、当時(1977年)の写真は、これまたすべて中村氏が、この本のために撮影したものであった。

 ところが古い写真の1枚である左の写真は、すでに誰がいつ写していたものか分からないまま、倉敷市に保管されていた写真で、時代考証に頭をひねった資料なのだ。中橋の向こうには、今も姿を変えず存在する、大正5(1916)年に町役場として建てられた洋風の建物があるので、その建設以後ということだけは確かである。

 川には水が少ないが、船が入っている。昭和31(1956)年、児島湾が締め切られて淡水湖化するまでこの川は、かつては汐入川と呼ばれていたように、潮の干満があった。舟が入っていたということは、現状よりもっと水位の高い時があったことを示し、つまり干満があったということだ。それは児島湾締め切りよりは前の写真ということである。

 子供は学生服を着ているが、男性の大人が着物である。色々勘案したすえ、昭和の初年1930年前後頃の写真では、というところに落ち着いた。

 前置きが長くなったが、この写真で問題なのは、写真左下に架かる小さい石橋である。写真右手の石橋は、前回話題の中橋だが、この中橋の姿は今と変わらない。さて左のこの小さい石橋、現在の状況とはかなり違う。

 下の写真二枚はこの橋の位置を、ほぼ同じ位置からと逆位置から写した、現状の写真である。なんと中橋よりも大きな石で、水路部分よりはるかに長く、橋の欄干が続いているではないか。

 この橋は前の華奢な石橋のときは、「かいやばし」とか「清音橋」などと呼ばれていたようだ。これらの名前は、屋号が「かいや」の家(現在の旅館くらしき)の前の橋だからとか、水路から水が汐入川に流れ込む音が良いので、清音になったとか、とつたえられている。しかし現在では特に呼び名はない。・・・・ということはより広くなった道の一部で、橋の欄干ばかりが大きくて長くても、橋という気がしないからだろう。

 実は1978年の写真帳では、ここは黒い鉄パイプの転落防止ガードレールがついている。既にここは橋ではなくて、道路の感覚だったのである。そこが石橋でなくても、ガードレールは道路と一体的で、特に違和感は無い。

 ところが瀬戸大橋開通直前頃、観光振興の名の下に、このあたり一帯の、道路や公衆便所などが改修された。先のパイプのガードレールが、まるで古い姿に返しましたと言わぬばかりに、大きな石橋欄干形のガードレールに変わったのも、この頃である。

 江戸時代の絵図や古文書で、享保19(1734)年にはすでに先の橋は小橋と記されている。この小橋が今では中橋に比べ、如何に大橋になっていることか、この一帯を改修した時は、このあたりはすでに橋も含め、伝統的建物群に選定されていた。いったい伝統とは何なのか、観光用偽装では、本来の伝統破壊に過ぎない 古い写真に対比した、当時(1977年)の写真は、これまたすべて中村氏が、この本のために撮影したものであった。

 倉敷考古館日記だより

 1988(昭和63)年4月8日 金 曇後晴

 ・・・館内は入館者も少なく静かだが、公衆トイレの工事が1日中ガーガーとうるさかった。

 4月9日 土 晴

 今まで工事用幕の中で不明だった公衆トイレ、やっと姿をみせたら、窓の明り取りや、外灯のデザイン、全くこの辺りに不釣合いのもので驚く。何のための伝統的建物群の選定か・・

 4月10日 日 晴

 大変よい天気、今日瀬戸大橋開通、・・・

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