(201) 倉敷にもドローン・・・から空撮を思う - よもやまばなし

(201) 倉敷にもドローン・・・から空撮を思う
2015/7/1

 2015年4月22日に首相官邸の屋上で、ドローン(無人飛行機)が発見されて、積載物に、放射性物質があったとか発炎筒があったとかで、大きなニュースになった。その時以来とたんに「ドローン」は「時の人」になったようだが、実はすでに目新しいものではなかったはずだ。近年での無人飛行機の話題は、中近東の抗争による戦闘ではニュースになっても、ニュースにもならぬさまざまな面で無人飛行機(ドローン)の用途は多用だったであろう。

大原美術館前あたりから、倉敷川周辺を飛ぶ、ドローン

 倉敷でも今まで、一度ならず少々けたたましいエンジン音で、何事かと思ったら、ドローンが倉敷川の上あたりを飛んでいたことがあった。実は首相官邸で話題となったときから半月ばかりも前の、今年の4月4日にも、大原美術館入口近いところから飛び立った一機のドローンが、しばらく倉敷川沿いの僅か上空を、散策ならぬ散走していたのである。

 首相官邸上で発見されたドローンも、20日も前に落ちたものとのことだったので、実は倉敷川上空でドローンを見かけた日に近い時期に飛ばされていたようだ、全く偶然のことながら・・・・・4月4日のその時は、大原美術館の開館には、まだ1時間も早い時間帯だったが、春の行楽シーズンで川沿いにはすでにかなり人も集まっていた。そこには数本に過ぎないが桜の木もあり、桜花はまさに満開。川沿いの柳は薄みどりに芽吹きかけ、この風景は毎年ながら、新鮮な美しさの感動を与えてくる。その上をドローンが飛んでいたのに行き会ったのだ。

 これはちょっと絵になると、数枚撮った写真の一部が左の写真である。例年の桜風景と異なった景色、これも時代の移り変わりの象徴か・・・かつては倉敷の動脈とも言える水運を担った倉敷川には、近年ではカヌーを漕いでいた人たちがいた事もあったり・・・今では5~6人乗りの川舟で僅かな距離を上下している観光舟が、開始の30分も前から、乗船予約取りのかなりな行列が出来ているなど・・・時代によって倉敷川一帯の姿は変わっていく、次は川の上空から見る景色に変わるのか・・・・ドローンから見た桜と柳を織り交ぜた周辺の景色など・・・・ちょっと想像もした。

 首相官邸侵入以来、急に話題となったドローンのニュースも、[75日]も経たない間に、早くも下火になりかけているが、それの利用法や規制については、今しばらくは注目をあつめることだろう。近年は遺跡調査の際の、上空からの写真撮影でも、こうした機材の導入は各所で工夫されていることだった。

 ただ私どもでは、こうした機材使用の調査には縁遠い状況だったが、ドローンが飛んでいたのを見たことで、既に半世紀近い昔のことながら、機会があって、セスナ機で上空から仕事で撮影する人に便乗して、無人飛行ならぬ自分で小型機に乗って、上空より遺跡地を写していたことを思い出したのである・・・・その時の古いフイルムがやっと出てきた。

 考えてみれば、岡山県南地域だけではあったが、その時撮影した主な写真は、幾度か印刷物に使用し、パネルにつくって展示もしている。しかし他にも写真の数はかなりある。始めて飛行機に乗った者が、小型機でしかも撮影対象に対し、急旋回したり急降下する中で、激しい酔いを感じながらも、それでもこうした機会はまたとないと、眼下の大きな古墳や、遺跡地と思しき地点の上で、窓にしがみつきながらがむしゃらにシャッターを切ったことは、その時のめまいやムカツキと共に思い出す。

 無人機撮影ならこうした思いも無いだろうが、それでは遺跡に対しあまり印象も強くないだろう。半世紀近く前に、自分の目で上空より見た遺跡地周辺は、すでに現状とは大きく違うものが多いようだ。

 私どもの博物館は、かつての吉備地方(岡山県全域と広島県東部を指す地域)在の考古博物館であった関係から、調査もその地域が中心であり、普及的な出版物も「古代の吉備」がおもなものだった。

 古い本をことさらいうことでもないが、中でも『岡山文庫 岡山の遺跡めぐり』(1970,6 日本文教出版社)、『古代吉備王国の謎』(1972,12 新人物往来社)、『日本の古代遺跡23 岡山』(1985,9 保育社)などはここに挙げる航空写真を多く使用した本だった。古い写真を眺めながら、その頃の事や、その後の調査結果なども加えた感想を、改めて記してみたくもなった。

 航空写真ではどこの遺跡かも判別しがたいような多くの写真の中にあって、最も目立ったものと云えば、今も周濠に水を湛え、だれの目にも一見して大前方後円墳と見える両宮山古墳(墳長約200m)のある一帯ではなかろうか。ここは岡山市の東部に隣接する赤磐市である。近畿地方の大形前方後円墳空撮の一部かとも見まがうような景色であろう。水を湛えた前方部周濠の、そのすぐ先には、森山古墳の帆立貝式の明瞭な墳形を示す姿があり、その東には廻り山古墳、後円部の後ろには、和田茶臼山古墳がある(右下写真参照)。

 写真では古墳は見づらいが、両宮山古墳南西の山裾近くには、兵庫県の竜山石製の長持形石棺出土の朱千駄古墳、南の山裾には九州の阿蘇山系の石で製作された舟形石棺出土の小山古墳がある。すべてが5世紀の中ごろから後半のうちにあるような古墳群である。

かつての吉備上道(かみつみち、後の備前国)の中心地域一角でもある赤磐市の両宮山古墳周辺。 南東上空より(1969年頃)
現在では山陽自動車道の高架が、両宮山古墳の前面で、平野の中央を突き切って、奥の山のトンネルに続く。この景色は再び見られない。

右中央部は、周濠に水をたたえる長200mからの前方後円墳・両宮山古墳。
両宮山後円部背後には和田茶臼山古墳があるが、この写真では見分けがたい。
前方部前には森山(上)・廻り山(下)二つの古墳。
写真左方下端近くに小山古墳が見える。小山の右手上方が朱千駄古墳所在地。
両宮山古墳の上方に見える森は、備前国分寺の一角。

 しかも注目されるのは、両宮山古墳のすぐ西側には、古墳に接するばかりの近い所に位置する、吉備上道(きびかみつみち)とされる備前国の国分寺があり、国分寺のすぐ南方に尼寺跡が推定されている。

 『日本書紀』ではちょうどこの両宮山古墳の時代に当たる頃ともみられる雄略記に、吉備上道臣の田狭やその妻の稚媛の物語があり、それは朝鮮半島の新羅国も巻き込んだ反乱伝承となる。

 この話は当地方ではオペラなどにまでなった物語で、よく知られるものだろうが、次回からもう一度、この周辺の古墳の実態から何が窺えるか、考えてみたい。

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