(152) 弥生人の語り(2)・・・木剣に刻まれたものは? - よもやまばなし

(152) 弥生人の語り(2)・・・木剣に刻まれたものは?
2013/6/15

 先回・先々回には、弥生人が銅鐸に描いていた絵模様に触れた。考古学に興味を抱く人に限らず、銅鐸というわが国特有の、不思議な古代の銅器に描かれた絵であるため、これに多くの人が関心をもって絵解きをしているが、何が正解なのか答えが無いのが、より興味をそそっているとも言えよう。

岡山市南方(済生会)遺跡出土木製剣形品の表裏図 長58.3cm 図は『南方(済生会)遺跡ー木器編ー』岡山市教育委員会 2005 による

 それにあやかってというのではないが、左に挙げたのは弥生時代も中ごろ、多くの銅鐸が村人たちの目に触れていたに違いない頃、同じ時代,檜の板で作られた木製品の図である。JR岡山駅に下り列車が到着する直前、線路に近接した右手一帯に広がる市街地の一角が、この遺物の出土地である。

 JR岡山駅周辺の広い路線敷きで、東西に分断される形にはなっているが、古くから岡山市南方遺跡として知られた遺跡地がこの一帯に連なっているといえる。先の149話で取り上げた津島遺跡の少し南で、弥生時代中ごろ、2000年以上昔では「岡山?の中心」とも言える地域だろう。

 この木器は、形から剣を模した物と見られている。岡山市の調査で出土し、同市の埋蔵文化財センターで管理されている物。倉敷とも考古館ともとくに関係は無いが、岡山県下では、もっとも注目される弥生遺跡の一つからの出土品、しかも他に類の無い代物・・・弥生人の語りを聞くには、立ち止まらざるを得ない。

  この遺跡は、かつての水路に近く、遺物が地下水漬けとなり大気と遮断された事で、腐敗し難い状況にあった。そのために、遺物、特に木質類の保存が大変よく、驚くべき精巧な木製品が残っていた。この剣形品もその一つだった

  この木製品には見て分かるように、多くの線状横刻み目と方形の刻み模様に、雄鹿が2頭、刃と柄の境目には、綾杉文と複合鋸歯文を彫り込んでいる。表裏で模様は異なる。同じような横線刻みにも、わざわざ長さが半分の刻みを配している部分がある。こうした配列が、決して無意味とは思えない。この意味は一体何だろう?

 この遺跡からは卜骨(動物の肩甲骨などに、小孔を穿ち部分を焼くなどして占らなったもの)も発見されている。卜骨と分かっている遺物は17点ばかりとか、膨大な資料があり、まだまだ調査研究中の様子。

 動物の骨や亀甲を用いて占いをする事は、中国では紀元前2000年も前から始まっていたようだが、わが国のこの岡山・倉敷辺りの弥生遺跡では、紀元前2~300年頃からの卜骨が発見されているのである

  南方遺跡でもこの頃に鹿や猪の肩甲骨を用いて、卜っているのである。これは海外からの新しい様々な文化導入の一つとして、習得した目新しい占いだったのだろう。あるいはこうした技術を身につけた渡来人がいたのかも知れない。占いだけでなく、外洋を航海して渡来した、航海術や天文の観測技術を持った人物も、立ち寄ったかもしれない。

 遺跡地の辺りは、現在では島の面影は全く無い児島の、北岸を通っていた航路から、現在の旭川に至る地にあり、外来の舟が集まる地であったとも思う。ここで新しい技術やまじないを習得した者が、この地開発のリーダーになったかもしれない。この木製剣を持つ者は、新しい鉄の剣を手に入れた者より、巧みに人々を動員できる、カリスマ性を持つ者に成れたのでは・・・

  この木剣、案外、獣骨を用いた新占い術の、カンニング本だったかも・・・卜骨の割れ目の数や大きさ形が、印で刻まれ、天候や行事や、あるいは出陣や渡航の吉凶の占いを示していたのでは?・・・

 いま少し科学的に考えるなら、月食・日食の観測法を示す教科書だってもよいのでは?・・・・・村の日常生活では、四季や天候の変化、それに伴う生活の方法などは、男女を限らず村の長老達の経験は豊富な筈、何も外来者の知識に驚くことでもあるまい。しかし日食・月食の予言は、当時のわが国では思いもよらぬ事ではなかったのでは?

 わが国で『古事記・日本書紀』が書かれる頃でも、神代の話としては、日食現象に由来するような、天照大神が岩戸にこもった時の、神々の大騒ぎ、神功紀には、男性二人を同じ棺に葬った事で、昼間が夜となる話、共に有り得ない異常時として描かれている。『記紀』に日食としての記録が現れるのは、推古朝、聖徳太子のいる頃からだった。

 しかし多くの文化を吸収している先の中国では、既に春秋時代(B.C.722―481)には、日食の予測ができていたと言う。日食・月食は連れ立って起こる季節があったり、223の朔望月、つまり18年と11日ばかりで、月・日食が一周する原則などがすでに知られており、こうした知識が伝えられたのでは?・・・・少々難しく、期間も長い話なので、このような知識、後々までは伝承されなかったかもしれないが。

 ・・・と言うような勝手な屁理屈で、ちょっと刻み模様を眺めて、楽しんでみては?・・・・

 一面の片側にだけ、刻み線で方形に囲まれた物が2つある。上を満月として・・下のものは中に一本別の刻み線がある、まるで日の字だから太陽か。鹿がいことは、この面は、現実の近い月日の数値の表現?月と太陽の間の横文様は、過去と未来の境・・・とすると、最近起こった月食と、近く起こる日食の日の予告ではないのか・・・反対面は文様帯より下だけで、長い刻み線の1本は、朔望月による1年とする。途中に半分の長さの線は半年、2あるので合わせて1年。長い線だけ数えると17でそれに1足すと18年になるか・・・

 片側にわざわざ集めて小さく刻み線を入れたもの8本ばかり・・・これは日数の表現とすると、この辺りの刻み目の残り具合は悪く、あまり正確でないから、 なんとか18年11日にこじつけれるのでは・・・・

 「う・・・・」・・・弥生人は、余りに勝手な話に困って、声もなしか・・・

 たしかにこの木剣図の左側で、下方の刻み模様は、片目をつぶった困惑顔にも見えるようだ・・・・

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