(123) 「誰も注目してくれない!」 - よもやまばなし

(123) 「誰も注目してくれない!」
2012/4/1

 このタイトルのようなセリフを、時には声を出して言ってみたい・・とこの品物は訴えているのでは・・・と思いながらいつも横目で眺めているのは、左の写真のようなもの・・・考古館の入り口から眺められる、低い棚状の板の上にいつも載っているものである。

これは何?

 考古館へ入館される人も、ちょっと入り口だけ覗かれる人も、この奇妙なものを、誰も特に気にしている様子は見えない。周辺に見るものは多いのだが、「おやっ?何だろう」くらい目をとめてもらえないか、という思いもあって、このようなものを並べたのだが・・・・

 とはいえ、少なくとも岡山県で考古学に興味ある方なら、これが何者かすぐ分からないようだと、考古学の仲間だとは思えない・・・・・ただ以前ならわざわざ考古館を見に訪れてくださるような人は、そこにある普段見慣れぬ、奇妙な形の焼きものなどには、かなりな興味を示し、質問などをされたものだった・・・

 昨今では興味あるものが多すぎて気にならないのか?あるいは考古学自体への興味が薄れてしまった社会なのだろうか?・・それとも「・・ナントカ鑑定団」に人気があるように、金に換算できるものにしか興味ないのが普通なのか・・・この奇妙なものもこの地域にとっては、一寸した歴史のヒントの筈なのだが。

岡山県南部の遺跡出土 弥生後期の上東式土器

 上の写真を見ていただくと、この奇妙な形の本体の姿が分かっていただけたであろう。これは考古館内の、一展示ケース内を写したもので、当地方の弥生時代後期、今から2000年近くも昔の頃の、最も普通品といえる長頸壷を集めて並べた部分である。

 先ほどの、少々現代アートを気取ったような奇妙な物は、この弥生時代後期の長頸壷の首から上だけに、ドライフラワーといえば聞こえは良いが、その辺りの枯れた草花をさしたもの。この岡山県やその周辺の一帯で、多少とも考古学を意識している者の間では、2000年位前の時代、つまり弥生後期頃を表すのに、「上東の頃」という言葉が通用している。岡山で「池田藩の頃」と言ったり、倉敷で「天領の頃」と言うようなものと同じである。それは上東式土器の頃という意味である。

 この時期の土器の中では、長頸壷がもっとも分かりよい形なのだ。その時代の標識名となった同種の土器を、大量に出土した遺跡の広がる地が、かつての都窪郡庄村上東、現在は岡山市と接する倉敷市の東端ともいえる位置にある、上東地区である。

 40~50年も昔には、遺跡地を歩いていると、道端に放棄された考古学資料に、驚かされることがあった。大体縄文時代や弥生時代の遺跡地を探して歩くのは、地表面に散布している小さい土器や石器材料片を、探し回ることから始まっている。

 この「よもやまばなし」の中でも幾度かにわたって、小さい土器片のかけらから、おおきな遺跡にたどり着いた話も話題にした。また一方では筆者なども、半世紀も昔の頃、山畑の縁で、古墳時代須恵器が完形に近い形で、十数点も石などと共に放棄されていたのに出くわして面食らった覚えがある。

 すでに故人となった大学教授の話だが、彼も若い時、弥生時代の土器が山ほど放棄されているのに出くわして、採集して持ち帰る入れ物も無く、そこらに落ちていた縄切れを拾ってそれに通すことが出来た円形に壊れた部分・・・というと土器の口縁部が主な物だが、それを持てるだけ一括りにして持ち帰った、というようなことを聞いた。

 考古館入り口の奇妙な土器片も、上東式長頸壷の頚部だけが、道端に放棄されていたもののようだ。この土器の頸の裏には、墨で「岩倉」と書かれていた。それは上東地域にすぐ接する地で、倉敷市日畑岩倉のことである。

岩倉で70年以上前に発見されていた弥生前期の土器(ガリ版刷り)

 この「岩倉」には名前のように、露岩があり、その地には岩倉神社がある。ところで、かつて地方でのガリ版刷りとはいえ、その史料価値の高さは今も知られる、当地方で熱心な郷土史愛好家の人々によりより出版されていた雑誌に『吉備考古』がある。この中の第37号(1938年5月)に上の図のような模様が掲載されている。もちろんこれもガリ版刷りである。これには「都窪郡庄村字岩倉発見、弥生式土器の模様 吉田謙三氏蔵」とある。古くから地元の考古学愛好者には知られた遺跡だったのだ。

 この文様ガリ刷りとはいえ、これが弥生前期の土器を表現した物、・・・先の土器頸部が当地の弥生後期の典型長頸壷だったのに対し、より古い前期の時代から、この地に弥生人の生活があったのを示している。

 またこの地の北200mばかりのところには、縄文時代の西尾貝塚があり、王墓山山塊がある。この一帯には、吉備地方独自の遺跡として注目される楯築遺跡・女男岩遺跡があり、王墓山古墳群、あるいは白鳳時代の創建日畑廃寺など、倉敷市としては遺跡の宝庫ともいえる一角であった。

 岩倉遺跡の西南方に広がる一帯の上東地域では、古くから多くの土器が出土していたこともあって、弥生後期の「上東式土器」が時代を代表する標識名となったのである。昨今のような大々的な調査がされない前から、何時のほどにか地上に出て、放棄されることの多かった物のなかに、この地の大きな歴史の片鱗があったのだ。

 40年以上も前から、山陽新幹線の開通のため、この一帯は様々な開発で遺跡の調査が進められ、その成果は膨大な物として報告されてきた。しかしなかなか実感とはならない世界に思われているだろう。だがその世界は案外身近なのである。何と言ったって、その頃の人も私たちも、本質はほとんど変わりない、同じ人間なのだから・・・・タイム・トンネルやジュラシック・パークなどには興味のある方々、ちょっと周りを良く見て・・・・つい足元にその入り口があるのでは?

 考古館入り口で、誰もが見向きもしないような物が、タイムトラベルへの切符だったり・・・・

 ・・・・・これはエイプリルフールじゃない!!

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