(147) 古新聞(その4)・・・人骨とミイラ・・・ - よもやまばなし

(147) 古新聞(その4)・・・人骨とミイラ・・・
2013/4/1

 考古学の発掘調査は、問題意識を持って該当する遺跡を選び出し、発掘をするのが本来である。だが残念ながら昨今では、工事に伴う事前調査、偶然発見遺跡などの調査が圧倒的に多い。それは決して研究本来の姿ではない。

考古館中庭に復元している高梁市赤羽古墳の箱式石棺

赤磐市安ヶ乢古墳の箱式石棺と人骨(近藤義郎氏図・『西山村史』による)

 しかしこうした事業中心の調査で、無作為に現れた遺跡や資料の中には、時に予想もつかなかった歴史の実態を実証する物が現れ、現代人の学問の常識に、遠い祖先から警鐘を鳴らす場合もある。

 古新聞を見ていると、このような現在の考古学調査と、共通しているようにも思えて来る。古い新聞を繰る場合も、何かを調べるなど特別の問題を持って、見ていくのが普通だろう。とはいえ、時に偶然、思いもかけなかった古新聞を目にすると、そこに見るのは、自分が生きてきた世界であっても、いかに重要な未来の歴史の芽を見落としていたかとか、人々の生き様や思想があったか、僅か数行の文字の中に、現代人が忘却したものの多さに驚かされるのである。

 前置きが長くなった。このところ話題の種としている古新聞は、全く偶然に無作為に残った物のほうである。今手許にあるものは、前々から記すように、毎日新聞の1951(昭和26)年11月4~16日の13部と、同新聞の1953(昭和28)年7月27日分・山陽新聞1954(昭和29)12月10・11日の分、3部で計16部。わずかなこうした中にも、現在還暦を過ぎたような人の、誕生した頃の世界が、いかに息づいていることか。

  これらの中で、先ずは考古学関係の記事でもないかと眺めたら、偶然にも当考古館調査の小さい羽島貝塚についての記事があり、先ず最初に話題としたのである。その後、別の関係記事を取り上げた。

  しかし考古学関係のものとしては外に、1951年11月8日付け岡山版に、「約千五百年前の人骨出る」のタイトルがあった。これは現在の赤磐市内である、旧赤磐郡西山村斗有の箱式石棺出土人骨のことであった。3段写真付きでかなり大きく報じられていた。今回の話題のタイトルの一つ「人骨」はこれ。

  既に故人である、岡山大学考古学教室の教授であった近藤義郎氏が若い日、岡山に赴任後間もない頃の小古墳調査であった。未盗掘ながら、石棺内には何の副葬品も残らず、12~3才ばかりの少年の人骨が一人分だけ出土した、と新聞では伝えられた。

  箱式石棺といっても、多くの方には無縁のもの、この「よもやまばなし」19話で関係のものを扱っているので、ここをクリックしていただくとよいが、参考までに出土地は異なるが棺形が分かるよう、現在考古館の中庭に復元している、高梁市落合赤羽古墳の箱式石棺の写真を、左上に示した。

  この旧西山村の古墳については、1954(昭和29)年刊行の『西山村史』に、近藤氏の記名で調査報告が載せられている。ここでは古墳名が「安ヶ乢古墳」とあり、右に示した実測図も示されている。人骨については顔に朱の付着があり、老年女性とされている。新聞報道では少年とあったが、遺跡出土人骨の性別・年令の推定は、人骨専門家でも困難な場合は多く、調査直後の推定と異なっていることは、珍しくない。別の古墳のことではない。

  なおこの報告には、安ヶ乢古墳に近接して、他に5基もの箱式石棺の所在が調査確認され、中の1基唐臼山古墳も発掘調査されたとある。この唐臼山古墳では、石棺構造は同じだが盗掘されていた模様で、二体の人骨が存在したようだが、保存も悪く、遺物も発見されなかったとある。 多くの遺物を出土した、大形古墳だけが古墳ではない。数多い箱式石棺から出土する、目立つ副葬品も無く埋葬された人達の状況も、古墳時代の実態に違いない。

  ところでタイトルのミイラの方だが、これは古墳出土人骨の記事より2年新しい、1953(昭和28)年7月27日付け毎日新聞上の記事であった。この頃は新聞も全紙1枚の4ページから、2枚8ページものに変わっていた。僅か2年後のことであるが、太平洋戦争後の、わが国の復興状況を示すものだろう。やっと紙の生産も多くなってきたということか。

  「ミイラ」という文字が、目に入った新聞、2年前には岡山版のページがあったが、これはなくなり、中国版になっている。「ミイラ」は一応全国版の中の、「東西南北」という小さい囲い記事の中のこと。

  何か古代にでも関係した記事かと、気軽な気持ちでよく見ると、タイトルは「悲痛なミイラの遺書」??・・僅か10行にも満たぬその記事を追った時、瞬時心臓の凍る思いだった。

 ・・・・愛媛県沖から引き上げられた、伊号33潜水艦(太平洋戦争中の我が国の潜水艦)に12のミイラ・・中の機関兵長のポケットから手帳に書いた遺書「ご両親様の御厚志深く謝す。艦内電灯消滅、気圧が高く呼吸困難なり・・・」乱れた筆が途絶えていた。・・・記事の主な内容は、ほぼこれだけ・・・ただこの遺書の主の名と大阪出身とは記されていた。

 あの終戦から既に8年経ったというのに、戦争はまだ過去でない時だった。戦時中、外洋に出る間もなく、瀬戸内で米軍の設置した機雷で沈んだのであろう、わが国の潜水艦・・・・しかもこうした記事が僅かな片隅にしか、扱われない時代・・・・あの戦争を表に出せない時代、それだけに戦争の傷がまだ私たちの中で、決して癒される物ではなかった事・・・・・

  古墳出土人骨は、2年も前から、現代に近く大きく扱われているのに対し、この戦争「ミイラ」への扱い・・・人々の心の中の闇の表現・・・うみゆかば みずくかばね・・・古新聞の日付を知りながら、自分の中の、ミイラという言葉に対した、考古学関係か?という軽い気持ちを恥じた。

 この1953年7月27日付新聞の1面には、横書きの大見出しで「休戦協定けさ十時に調印」とある。朝鮮戦争休戦協定の事である。

Go to Top