(30) 「中橋」橋柱銘と「倉敷考古館」の表札 - よもやまばなし

(30) 「中橋」橋柱銘と「倉敷考古館」の表札
2008/5/21

 前回・前々回は、考古館前の中橋や横の小橋を話題にしたが、中橋に関係してもう一話。

 橋には欄干端の橋柱に橋名を記すのが普通であろう。中橋にも左右の橋柱に、それぞれ漢字と変体仮名で、左の写真に見るように橋名が刻字されている。これは先の(28)回で話題にしたように、明治10(1877)年に中橋が石橋に架け替えられた時、刻字された文字である。今では漢字の方も「橋」の略字であり、変体仮名は読めない人も多く、ガイドさん達がわざわざ読みを説明している事もある。

中橋銘 原唯七氏筆

考古館表札 原澄治氏筆

 こうした文字は、時の著名人とか有力者、あるいは架橋関係者などによる事が多いが、中橋の橋柱名は、当時は倉敷村村会議員で、江戸時代には村年寄であった、原唯七氏の揮毫と伝えられている。

 この原唯七氏は、当時の有力者として伝えられる事も多いが『新修倉敷市史11 史料近代(上)』(1997.11刊行)に採録された明治12年の村会議決録中に、同氏にも関係した、中橋関連の資料がある。架橋より二年後のことだが、内容は次のように読める文章である。

 「・・・郷蔵などを売り払った代金で、中橋営繕費や汐入川筋堀浚費残り、植田孫太郎・原唯七両人の立替分を支弁すること・・・」

 植田家は幕末このあたりの大庄屋で、現在中橋を挟んで考古館の前にある旧倉敷町役場の位置が、植田家屋敷跡なのである。原家は幕末から明治時代も、大原家と濃い縁戚関係のある豪家である。

 先に述べたように、中橋架橋では、橋桁の石が折れて死者まで出て大変だったようだが、そのため予算オーバーしたのだろうか。その頃には、植田家や原家で、村の経費が立て替えられていた事もあったのだろう。いずれにしても原唯七氏は中橋の石橋化に尽力した人物だったといえよう。橋名の文字が原唯七氏の筆であったことも、それを物語るであろう。

 ところで石橋の中橋が出来てより、73年後に橋の真向かいに開館したのが倉敷考古館であった。開館時には、左下の写真に見るような、考古館を示す木の表札(幅約25、長約80cm)が掲げられていた。この文字は原澄治氏(1878~1968)の揮毫である。

 原澄治氏は、唯七氏の次々代の原家当主で倉紡重役、1918(大正7)年から1923(大正13)年まで倉敷町長なども勤め、中国新報新聞社社長も歴任、私立倉敷図書館創立にもつとめ、1926年には私財で倉敷天文台創立など、経済・文化面で活躍され、後に倉敷名誉市民となられた。

 考古館設立も、実はこの原澄治氏の発案で出発したのである。発足時の考古館では原澄治氏は、大原総一郎氏とともに顧問であった。考古館の表札が原澄治氏の手になったのも,しごく当然の事であった。

 その後、考古館で増築がされた1957~8年頃、変色した考古館の木の表札は、銅版の小さい表札にかわった。それまでは道を挟んで、倉敷河畔の歴史や文化形成に深く関わった、明治から昭和にかけての二人の原家長老の筆跡が、並んでいたと言う事である。

 倉敷考古館日記だより

 今回日記は日時を限って引用できない。原澄治氏が如何に考古館をたびたび訪れられていたか、個々にはあげきれないのである。考古館の開館時頃は数日あげずに来館されている。散歩の途上に立ち寄られていたようだ。開館後五年ばかり後でも、まだ月に一二度は立ち寄られていた。

 いつも帽子を被られており、館に入るときはそれを手にとって、自然に胸に当てて入ってこられた。いつもステッキか傘の柄を腕にかけておられる、生活の中に自然態で紳士のスタイルが身についた方だったのである。日記には来館者としてお名前はあっても、特になにのためとの記載が無いのは、いつも気にかけてちょっと立ち寄って下さったからだろう。

 遠い記憶の中のある日、紳士が大きなバナナの房を、帽子とともに持って入って来られたような気がする。通り道の八百屋にあったからとだけ言われて渡されたような・・・

 しかしこうしたことは日記にもないし、当時勤務していた人に聞いても、記憶に無いとのこと。もしも原澄治氏がそうしたお土産を下さるのなら、誰かに届けさせられただろうとも。確かに原氏の立場では当然そうだろうとは思うのだが、それでもバナナだけでなく、通り道の菓子屋での饅頭も、頂いていたような気もするような・・・要職を歴任された物静かな紳士だが、そうした気遣いもされる方だったような印象が作った、幻だったとは思いたくないのだが・・・時は解決するのでなく、忘却もしてしまう。

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