(169) センダンの木は残らなかった・・・・・が - よもやまばなし

(169) センダンの木は残らなかった・・・・・が
2014/3/1

 「樅の木は残った」といえば、山本周五郎の歴史小説。仙台藩のお家騒動を題材としたもので、多くの演劇やテレビドラマにもなっており、説明するまでも無いだろう。そうしてそのタイトルの「木」は、おそらく作者の思いが込められたものだったのだろう。

倉敷河畔・倉紡荷揚場に生えたセンダンの木の移植準備中

センダンの木の下から現れた倉紡創建時頃の荷揚場か?硬く固められた傾斜面 川の奥に見える橋が、考古館前の中橋。川面に考古館の姿も映る

 日光の「太郎杉」といえばこれもご存じの方が多いのでは?・・・この杉は日光の杉並木の起点の一つに位置しており、立派な杉並木の中でも、最も大きい杉ということで「太郎杉」とか「並木太郎」と呼ばれている。

 わが国の高度成長が本格化した頃の、昭和39(1964)年に、国道120号線の拡幅を巡って、この杉を含む 15本の杉伐採が計画され、日光の神社側と国との裁判が起こされた。長期にわたって争われたようだが、その時これらの杉はやっと残り、その時の判決は、自然環境保護のさきがけとも言われている。

 上の二例は残った方の木のこと、これから話す木は、結局はそこに残らなかった木ということになるが・・・これは考古館前の倉敷川河畔にある木の中の一本である。倉敷川河畔には柳並木があると思っておられる人も多いかもしれないが、考古館から南に続く河畔の東岸には、根元近くは径が50cmもあるような大きなセンダンの木が、幾本か並でいる。其の中の一本のセンダンだった。

 これらの木は、柳並木が主な河畔の中で、大きく枝を張り、春から初夏には薄紫の花と香り、夏には茂った葉で木陰を作り、秋から冬には1cmばかりの小さい実が鈴なりとなり、冬空に景色を与えている。

 この実は鳥の餌ともなっているのか、多くの小鳥によって、数日もかからず実がなくなっていたこともある。これらの木からかなり離れている考古館の小さい庭に、雀が持ち込むのかセンダンの実が落ちていることもある。

 ところでこのセンダンの木の1本が、倉敷川に張り出した形で残る、かつての倉敷紡績工場へ河舟で運ばれた原綿などの荷揚場に生えて巨木となっていた。近年では大きくなり過ぎて、其の根が荷揚場の石垣や石敷きを崩しかける状況となってきた。

 倉敷河畔の風物や、観光客が木陰で憩うには大変良い木、地元では木への愛着も大きい。だが一方で、これも倉敷河畔の歴史では重要な遺構である荷揚場が崩され、観光客にも危険なことになる・・・という中で、それでは近い場所で、石垣を壊さないところにこのセンダンの木を移動ということで決着した模様。

 あのように大きくなった木を、直ぐ近くとはいえ移植して、根付くものかと、素人考えで危惧していたが、今年(2014)に入り真冬のさなか、殆どの枝が払われてゆき、大きな根元の掘り返しが進んでいった(写真・上)。

 大きな木の根は荷揚場の石垣を抱き込み、根の取り外しはかなり難儀だったようで、倉敷川の水位も下げての工事だった。ところがその下から、誰の記憶にも無かったものが、出現したのである。

 今までも幾度か話題にしてきたことの繰り返しになるが、考古館前の倉敷川は、もともと瀬戸内海に面していた海岸が、陸化していく中で澪筋として残った水路を、運河として使用してきた川であった。そのため川上に水源の無い川。現在は別の用水路からわざわざ水を流しているので、川岸の工事の時、水位を下げることは簡単なのである。

 しかしこの倉敷川は、江戸時代を通じ、倉敷の町家を発達させた動脈ともいえる水運の基本路でもあったため、この運河の維持に、地元では努力が続けられてきた。それは明治時代以後となっても、変わることはなかった。考古館前の中橋より直ぐ下手に見える前神橋の南には、蒸気船まではいってきたのである。

 蒸気船の話はまた触れることとして、センダンの木が占拠したかつての倉敷紡績の荷揚場のある川岸には、その外にも江戸時代以来の荷揚場であった、石段の雁木や、其の痕跡がいまも数多く残っている。かつてこの雁木を話題(よもやまばなし42話)としたこともある。

 倉敷紡績は、明治22(1889)年10月に操業を開始しているが、工場建築から内部の設備整備などは、前年の明治21年から、急ピッチで進められたようである。そうしてこれらの全ての用材や、機械類は倉敷川の舟運によった、とされる(『回顧六十五年』倉敷紡績株式会社1953年参照)。私達は、現在川に張り出す形で残る倉敷紡績の荷揚場が、この頃からほぼ現状に近い状況だったと思っていた。周辺の古老からも、特に何も聞いてはいなかった。

 しかしセンダンの木の根の下から、川の水面から岸に向いて、石を、石の粉や白い壁土様のもので固めたような、頑丈な斜面が出現したのである(写真・下)。一見、石を漆喰で固めたように見えるものだが、随分と固く、いわゆる「三和土(たたき)」がこのように硬いものなのか?・・まるでセメントによるコンクリートの様でもある。

 先の倉紡『回顧六十五年』には荷揚場の事などまでは、記されてないが、工場建設には石と漆喰が用いられたとある。当時はまだセメントは輸入品であり、高価なものだったからである。

 わが国でもセメントの生産は、明治10(1977)年頃にはすでに始まっていたようだが、量産可能になったのは、明治30年も後半になってのようだ。明治21年頃急ピッチで進められた倉敷紡績工場建設には、まだ江戸時代以来の倉敷川の水運や、土木建築の各種の技術が生かされている。イギリスから輸入の高価な紡績機械も、こうした水運で運び込まれ操業を開始する。

 しかしあの固い斜面を作った材料は、何であったのか・・・明治16年頃の事として、今の倉敷市宇頭間あたりに「人造石」製作所があったことが、当時の新聞記事にある(『新修倉敷市史5近代(上)』の「漁業の展開」参照)。この「人造石」とは何であろう。 或いはあの倉敷川河畔の荷揚場に用いられたものも、同種のものだったかも・・・これも忘れられた明治初年頃の土木技術の一端か?(この「人造石」については、次回で少し詳しく触れる)

 新しく現れた荷揚場の材質は別としても、まったく忘れ去られていた、倉敷河畔の小さく目立ちもしない構造物・・・しかし確実に倉敷河畔を、江戸時代から近代社会へ繋ぐ、一本の道だった名残が現れたのである。

 この道の行方が、大原美術館の名画となり、そこを訪れた多くの人の文化的な力が、今の倉敷の古い街並みを残す原動力だった、これを忘れないように、と云うかのようにセンダンの木の下から、古い荷揚場が現れた・・・センダンの木はそこに残らなかったが、さてこの新出の荷揚場遺跡はどうなるか、とりあえず埋め戻されて、以前見られていた荷揚場に戻されているが・・・

 その地には残らなかった荷揚場に生えていたセンダンの木、1957年の写真にはなく、1966年の写真には、細い木があるようだ。樹齢は55年くらいか?現れた荷揚場はその倍以上も昔の物である。

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