(62) 川の中の証言―備前刀の里― - よもやまばなし

(62) 川の中の証言―備前刀の里―
2009/8/15

 「吉井川の川原で、犬を散歩していて採集したものです。」といって大河内栄子さんが考古館を訪れたのは、一年以上も前のことであった。採集地は瀬戸内市長船町福岡のお宅からは4kmばかり南の河川敷の中とのこと。その地は平成合併以前、邑久町であるが、福岡とは一体的な地域でもある。そのとき持参されたもののほとんどは、弥生時代や古墳時代の土器片であった。

吉井川の川原で採集された、中国宋時代青白磁器の破片

吉井川の川原で採集された砥石の破片

 来年は(2010年)還暦を迎えようという全く民間経営の当館では、その長い活動期間中、資料の収集・調査・研究の面などで、多くの民間の方々からのニュースや発見に、支えられてきたのだった。この「よもやまばなし」でも幾度かそうした逸話をとりあげた。中でも倉敷市内を流れ下る高梁川での、遺跡発見や資料収集のきっかけなどに、地元の学生さんや人々の協力があったことは、6話や10話で述べたとおりである。

 今回の大河内さんも吉井川の中から、歴史を運んでこられたのだ。その時大河内さんは、「このほかにも砥石や青白磁の破片がたくさん有るのですが」とのことであった。砥石が多いと聞いて驚いた。ぜひそれも見せて頂きたいということから、重い石などを持って、その後訪れて頂くことになったのである。

 もともと焼き物に造詣深い方だから、他の多くの採集品中から選んで参された青白磁片は、左上の写真のように細片ばかりではあったが、主には中国の浙江省あたりにある、宋代の古窯で製作されたものであった。

 備前福岡といえば、古代末以来中世を通じ栄えた「市」として著名で、教科書などでも馴染み深い『一遍上人絵伝』(13世紀末に制作)に、店の並ぶ情景が写実的に描かれているのを、目にした人は多いと思う。これもまた、いうまでも無いことだが、この福岡の名が、後に九州福岡の名の由来であったということも。

 この備前福岡の繁栄の一端を担っていたのは、周辺一帯が大きな産地となっていた、備前焼であり備前刀であろう。しかしこうした商品となる物の大量生産も、その地が、吉井川という中国山地から瀬戸内水運へもつながる大河と、山陽道の交点で、市場成立にきわめて有利な地であった点と相まってのことである。

 ともかく備前刀、12世紀から長船刀として天下に知られた、日本刀生産地の一つであったのは、この一帯である。この地産の製品だけではないが、中世には中国との貿易で、わが国輸出の主要な品目に、刀剣類がある。しかも時代がくだり15世紀後半から16世紀になると、輸出量は膨大となり、幾千振り、幾万振りの数値になっている(『長船町史・刀剣編』2000年参照)。

 当然長船一帯でも、名刀だけでなく、束売りされる大量の刀剣が生産されていた筈である。しかしこうした生産跡は、備前焼のような窯跡として残るようなものでないため、今までに、明確な遺跡地としては、知られていないといえる。

 吉井川原から採集された中国産青白磁陶は、明らかに12世紀も古い頃から、この地には多くの中国産陶磁器がもたらされた事を示している。近年はこうした製品が、有名寺院や豪族の居館跡からだけでなく、各地方の交易などが行われたような地で、発見されている。

 ところで今一つの採集品(写真右)、多くの砥石片は、もし発見されても、他の遺跡では数は少ない。川原からの採集品に限らず、当館によく持ち込まれる石では、「石斧では」とか、「砥石では」ということなのだが、残念ながら自然に磨耗した石である。今回持参された石片は、砕片になったものも、部分に明確な研ぎ跡が見られ、砥石としての石質も良い。

 倉敷市内で高梁川原の多くの資料は目にしており、中には中世資料も、多種のものが数多く有るが、ここでは、中国産の当時の青白磁は極めて少なく、砥石もほとんど記憶に無い。

 砥石だけでは何時の時代か限定はできないが、吉井川では共に採集されているものに、中世資料が多いことから、この川原の砥石は中世資料の可能性は高い。なによりも偶然採集の資料中に、このように砥石が多数あった事実自体、普通ではない。しかも採集品の中には、鉄滓や鍛冶炉の破片を思わすものもあった。

 刃物と研ぎが一体であることは当然のこと。このかつての長船一帯といえる地を流れる吉井川の中に、こうした遺物が多数あることは、まさに刀剣の里の実像といえよう。この一帯の吉井川は、幾度か大きな水害を起こし、流路を変えているとされる。今は幻になっている多くの刀鍛冶の家々、川原で耳を澄ますと長船刀を打つ音が聞こえるのでは・・・・

 著名な刀工の名や作品は残っても、幾百振りもの刀量産に追われていた刀工や人夫の姿は、この砥石のかけらにしか見ることが出来ない。しかし彼らの周辺では、かなり貴重品だったと思われる、中国渡りの陶磁器類が、日常的に目にし得たようである。さすが福岡周辺は、当時の大形流通センターだ。

Go to Top