(106) 災害の中の、時代物?記念物? - よもやまばなし

(106) 災害の中の、時代物?記念物?
2011/6/15

 このよもやまばなしの101話は「千人塚」というタイトルで、今回の東日本大震災の直後の状況と、それに関連して、倉敷で130年ばかり前に起こった大災害を話題にしたのであった。

1884年現在の倉敷市福田新田での大水害の際、明治天皇の下賜金で作られ被災者に配布された布団
(当地の渡辺英章氏宅保存)

 このよもやまばなしの101話は「千人塚」というタイトルで、今回の東日本大震災の直後の状況と、それに関連して、倉敷で130年ばかり前に起こった大災害を話題にしたのであった。

 あれから既に3ヶ月が過ぎるが、大震災の余波は様々で、特に原発の被災が収まる気配も無く、政局までも混乱し、これからのわが国の厳しさを思わすばかりである。・・・・とはいえ各地では、それぞれの生活が続いているのも言うまでもないこと。私どもとて変わりは無い。

 ・・・・ところで当館では、30年以上も前から、『日本書記』に続き『続日本紀』を読む「くすの木」と言う会の、先導役をしてきた。会員は倉敷やその周辺のご婦人ばかり、多少の出入りはありながらも20名前後で、ずっと続いている。年に1~2度は遺跡めぐりもする。

 この会の今年(2011年)3月例会で、『続日本紀』より新しいが、今回の大災害でクローズアップされた、貞観11(869)年5月26日の大地震にともなった大津波について、『日本三代実録』の原文を示して解説し話題とした。その時、倉敷在住の方が多いので、先の「千人塚」についても説明したのである。

 平均年齢は60歳近いのではと思われるこの会の方たちでも、その名前を聞いたことがあると言う程度の方が数人ばかりであった。先のよもやまばなし101話のような話と共にその時(明治17年;1884年)、明治天皇から3000円の下賜金があり、それを元に「恩賜」の文字を染め抜いた掛け布団を作り、被災者に配られた話もした。

 この時一寸したついでに、130年も前だが、もし地元にこの布団が残っていないものか、と言うようなことも話したのである。

 数日後、かつての被災地域にお住まいの会員の一人から、件の布団をまだ保存されている方があった、との連絡を頂き、次回の会に借りて持参するとのことだった。その実物が左上の写真である。紺染めで「恩賜」の文字と、丸くデザインされた鶴が、白く染め抜かれたものであった。

 現在の大きさは縦が160cm弱、横140cm弱であるが、よく見ると、裏と縁の紺地はかなり新しい。それに比較して模様のある表地は、部分的に痛みが激しく、補修されたところもある。布地が日焼けしてあせた部分も目立つ。

 何よりも、「恩賜」の文字が裏字になっているのは、幾度かの布団の縫い直し(布団綿の打ち直し)の際に、色あせてない裏面を表にしたものであろう。縁や裏地は、新しいものに取り替えられたものと思う。本来の大きさも、現状通りであったかどうかは分からないが、この布団が、長く使用されてきたことは窺える。

 現在83歳の方の祖母が、妊婦であった時被災されたとのことであった。その方が大切に保存されたようだ。こうした消耗品が、長い使用の後、100年以上も保存されてきたことに、被害の大きさを、現実に感じさすものであった。

岡山の戦災焼跡から掘り出し、今も使用中の漏斗

 ところで6月29日が近い・・・と言っても、今では岡山市内に住まう人でも、その日は一体何?と言う人がほとんどではなかろうか。2011年の今年から言えば、66年前の1945年6月29日の未明、岡山市が米軍の空襲により灰燼に帰した日であった。

 この戦火の中を逃げ回り、江戸時代の岡山城が、火に包まれた姿を見たものには、その日は昨日であっても不思議でない感覚である。何処が我が家であったかも、見定めるのが困難なような焼け跡で、それでも何か残るものは無いかと、焼け落ちた瓦礫中で、我が家の台所辺りから唯一つ掘り出したのが右に示した、漏斗であった。

 戦災前に、台所の醤油樽(当時は一般家庭でも、醤油などは樽で買っていた)から小容器に醤油を移すとき、使っていた青い色の琺瑯びきの漏斗であった。その頃の、最も普通の漏斗である。

 全く偶然に焼け残ったこの漏斗は、写真でも分かるように、表面の琺瑯が一度熱で溶けたのか、あちこちにケロイドのような、焼け縮みがあり、硬い丸いはずの本体は、不正形に捩れ歪んでいたが、使用可能なものだった。

 全く何も無くなった我が家にとって、この漏斗はそのまま台所の用具とし、てんぷら油などを移す道具として、延々と使い続けて今も現役なのである。恐らく油に関係したことで、錆の出ることもなく、使用に耐えてきたのであろう。

 地方の一都市に過ぎない岡山市の空襲では、1737人の犠牲者だったとされる。一夜で死んだ市民なのである。戦争と言う人災の大きさも、いかに大きいものであるかは言うまでもない。天災以上である。

 漏斗も今では数少ない、生きたその人災のなごり。倉敷福田災害の布団から見れば、まだ半分の年月しか経っていないが、災害を、人々が忘却している点ではあまり違わないだろう。共に忘れたではすまない歴史事実。このような品々、「時代物だね」というべきか、それとも「記念物だ」というべきなのか・・・・

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