(102) 釈塔(しゃくとう)さま - よもやまばなし

(102) 釈塔(しゃくとう)さま
2011/4/15

 先回話題とした「千人塚」は、倉敷市広江にあった。この地には度々話題とした広江・浜遺跡のあったことも、改めて言うことではないだろう。実はこの広江地区では、いま一つ気になるものがあるのだ。

広江と周辺の地図

釈塔様

 先回話題とした「千人塚」は、倉敷市広江にあった。この地には度々話題とした広江・浜遺跡のあったことも、改めて言うことではないだろう。実はこの広江地区では、いま一つ気になるものがあるのだ。

 左の地図の原図は、国土地理院の出してきている、わが国全土の地図中で、2万5千分の1「茶屋町」のごく一部である。問題の広江を中心にした一帯だが、原図よりやや拡大している。

 小さくて見辛いが、この地図の中には、今回線で囲ったように、千人塚の文字があり、所在位置が示されている。広江は大字名である。手書きで記入している広江の「浜」という小字名を持った一帯が、縄文時代以来の遺跡だが、そこに現在は建っているはずの、第三福田小学校は無い。いま一つ別に線で囲った所には、釈塔神社の文字が見える。この地図の左方で、きれいに区画された地域は、なお広く左方に続いており、そこが先回話題とした大水害の被災地であった。

 ところでこの地図は、実は1957年の改訂版であって、現在市販されている同種の地図には、今も厳然と建っている、千人塚碑の位置記入は無く、釈塔神社のほうは、石洞神社になっている。しかし今でも地元では、釈塔さまと呼んでいる。もちろん第三福田小学校は、広江・浜遺跡地の真上にある。

 半世紀以上も前には、千人塚は、まだ記憶に残るものだったが、新しい地図への改定時には既に忘れられたのであろうか?・・釈塔(しゃくとう)さまの方は、その名前から、癪に効く神様になっていて、供え物とする杓を持って参詣する人も多かったとか・・・・

 問題のものは、釈塔以外にも、石洞(しゃくどう)とも石塔とも呼ばれていたようで、江戸時代の地誌『備陽国誌』には積塔とも記されている。これら全ての呼び名は、もともと普通名詞の石塔から派生したものだったのか・・・・ともかく現在の神社名は天石門別保布羅神社で、問題のものは、その神社の社殿前にある、まさに石塔である。

 現在の姿は写真に示したように、破損の激しいものだが、2本の軸石の間に残る笠石には瓦屋根の表現、いわゆる瓦棒があり、軒下には二重の垂木などの丁寧な表現がある。残高は170cmばかりだが、写真でも見えるように、周辺には、かなりの部材断片があり、本来は三層の石塔であったと見られる。また近年、補修のための周辺調査で、瓦塔の破片も発見されている。かつては瓦塔も建てられていたようだ。

 この石塔については以前から、鎌倉時代に承久の乱(1221)の首謀者として、隠岐に流された後鳥羽上皇、その皇子の一人が父の供養として建てたものとか、児島に流されたとされる親王の供養塔などの説もある。しかし先に見た石造の形態や瓦塔の存在などと、他の類似の遺溝や遺物との比較から、これは少なくとも奈良時代末から平安期も前半頃の石造品と見られるのである。鎌倉時代よりは一段と古い、残存例の少ない、珍しい石塔なのである。

 奈良時代末ごろから平安時代前期の頃といえば、この石塔の下とも言える所にある、広江の浜遺跡でも、かつては低いながらも台地先端の平地であったあたりから、奈良時代頃の須恵器や、平安前半期の緑釉や灰釉陶器等が出土している。ここは既に土地上面が削平されていたので、遺構は分からなかったが、その頃の、中心的な建物などがあったと思われる。

 この広江のある児島の一帯は、古墳時代以来製塩の盛んな所であった。広江の浜遺跡もその一つである。古墳時代の土器による製塩が終わって後も、児島の一帯が優れた塩の産地だったことは、平城宮出土の遺物中に、児島から貢がれた塩の荷札が、かなり発見されていることでも分かる。

 また延暦18(799)年の『日本後紀』によると、備前国から、児島郡では製塩して税にあたる調庸を納めているが、塩作りに必要な山野や浜・島を、豪家・豪民が奪い取って、貧富の差が大きくなっている。これを禁止して欲しい・・と言う意味の願をしている。広江辺りでも、すでに豪家や豪民がいたであろう。

 また大同元(806)年には、国司が下向するときは、地元負担の大きい山陽道の駅伝はやめて、海路にするようになる。海運がさかんだったことが伺える。

 ところが承和5(835)年頃になると、南海道・山陽道では海賊が出没したようで、国司に対して,追捕の命令が出ている。貞観4(862)年の『三代実録』には、瀬戸内一帯から四国にかけても、海賊の横行が激しく、物を奪われるだけでなく、往還の人々が殺されていたとある。これの追捕命令も出されている。

 しかし効果はあまりなかったらしく、遂には海賊を追捕する側の役人である藤原純友が、海賊の頭として反乱を起こすのが、承平6(934)年、著名な純友の乱である。  こうした状況が、文献を残した側の考えや行動を正当として書かれていることは、常識であろう。実態が何であったか・・・ここで直ちに評価できることではない。

 ただ少なくとも、広江・浜にはこの頃の遺跡があり、そこからは直線ですぐ上り得る道のあった、遠くの海をも望みうる地に建てられた、3層の優れた石塔は、僅かに残されていた先に見た中央側の記録の時期と、重なる。

 おそらく海を背景により豊かな生活を求め、広く活動した人々の、何かの祈願か、あるいはそのために、命を落とした人々への供養だったのであろう。彼や彼女達が、時の政府側であったか、海賊側であったかは問題外であろう。文字でこそ残されなかったが、浜にも山腹の石塔にも、瀬戸内の大きな歴史がある。

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