(93) 涼松の人 - よもやまばなし

(93) 涼松の人
2010/12/1

 先の11月20日に、考古館の60周年記念として、私どもだけでのささやかな講演会を行ったことは、このホームページでも以前から御案内していた。わざわざおいでいただいた方には、改めてここでも深く感謝したい。ささやかな会にもかかわらず、思いもかけず170名からのご参加だったことは、たいへん嬉しいことであった。

 先の11月20日に、考古館の60周年記念として、私どもだけでのささやかな講演会を行ったことは、このホームページでも以前から御案内していた。わざわざおいでいただいた方には、改めてここでも深く感謝したい。ささやかな会にもかかわらず、思いもかけず170名からのご参加だったことは、たいへん嬉しいことであった。

 実はその時の一つの題目は、40年以上も昔に、当館で調査した倉敷市船穂町里木貝塚出土の人骨を中心に、中部瀬戸内地域の縄文時代人について考えたものだった。わざわざ講演会にお出かけ下さった方には、同じような話となるが、ちょっと人物紹介しておきたいので、ご容赦いただきたい。

 話の中で里木貝塚の「人骨」を中心にしたのは、一つには、この貝塚調査報告はすでに40年も前の1971年、当館の『倉敷考古館研究集報7号』に「里木貝塚」として出版済みであったが、出土人骨についての詳しい知見は、記載できなかった。それを補う意味があったこともある。

 またいまひとつ、里木貝塚からは2kmばかり西方で、同じ倉敷市船穂町内にある涼松貝塚出土人骨にも、里木人骨とほぼ同等に触れたのである。この遺跡の多少まとまった調査は、里木調査の5年も前であった。その後緊急の調査などもあり、まだ正式報告書は出版されてない。大変遅くなったが、近く資料報告の予定である。この遺跡の人骨の状況も、まず明らかにして置きたいとの考えもあった。

 前置きが長くなったが、ここでは特に後者の涼松出土人骨たちに登場いただくことになる。彼らの一部は、すでにこの「よもやまばなし」40話で話題としたが、4体の男性が、まとまって死亡埋葬されたような特異なものであった。40話をクリックしていただけると分かるが、しかしこの話にも、ちょっと追加が必要である。

 実は彼ら4人の中の一人に抜歯があったのだ。縄文時代人の抜歯については、かなり以前だがやはりこの「よもやまばなし」の8話で話題としているので参考に。ただ抜歯の風習が盛行しているのは、縄文時代も終わりの晩期である。

 ところがこの涼松の人物は、私たち調査出土人骨中では、ただ一人の抜歯者。事故での歯の欠損ではない状況。もちろん同時に埋葬されていた他の3人には認められなかった。しかも中期の可能性がある人物たちである。この時期には大変珍しい行為なのだ。下顎の前歯2~3本抜いた彼には、いったいどんな理由があったのか?

 4人が同時に死亡したと思われることも、謎のままである。

涼松出土人骨の1人。 向かって右の骨が、骨折後ずれたまま治癒した大腿骨

涼松出土人骨の1人。屈葬の胸直上に、大石、顔にも石、この人物を復顔

胸に大石を載せられた人骨の頭部(上)とそれから復顔された顔

 涼松人骨の中には、大怪我をしてしかもそのまま回復し、その後も長く生存していた人物もいた。こうした状況が、骨に痕跡で明瞭に残った例は、縄文時代としては、決して多くはないようだ。薬も無く、医療知識も乏しい時代のこと、大きな怪我の後に、長く生存するのはかなりな体力の持ち主だったといえよう。人骨は50歳代の男性だった。

 「あっ・・この人間足が3本ある!!」この人骨を発掘していたものが、大声を上げたことを、今も良く覚えている。一方の足の大腿骨がまるで2本あるように見えたのだ。そのうち土の中から姿を現した大腿骨の全形は、2本に裂けてずれたような骨の間に水かきのような骨の増殖のある、今まで見たことの無い形であった。

 この人物、傷は一応治癒しても、生前は酷い足の長短で、歩行も不自由だっただろう・・後に痛むこともあっただろう・・とその時話し合ったことを思いだす。

 以前、どこの新聞紙上であったか、縄文人についての話が連載された際に、怪我した人物の骨として、突如として涼松遺跡出土のこの人骨の大腿骨が紙上に姿を現したことがあった。これは発掘者に相談あってのことではないから、珍しい例として示されたものといえる。

 涼松貝塚では、当館が調査する以前からも、数体の人骨出土が知られていたが、わたしどもの調査では14人が復活した。以前出土の明らかなものを含めて17人。この中では男性が12人、女性4人、子供は1人・・・・何とも男性社会である。この傾向は里木貝塚でも同じであった。

 その他の涼松人骨の中には、胸や顔の周辺にかなりな大石を載せた者も、数体あった。その中の一つが、ここに写真を示しているような状況だったのである。胸の上に置かれた大石、石を持ち上げたらその裏に、肋骨が胸の形に付着していた。顔の上にも石が置かれていた。

 20才そこそこの若者だった。人骨たちの埋葬は、互いが接していても、どれだけ埋葬に時間差があったかは分からないから、大石を胸に置くのも、彼が生きていた頃の普通の習慣かも知れないが、やはり気になる埋葬法であった。これも若い彼の死に何かがあったのではと、思わした人物だった。

 大阪市立大学に人骨の調査研究をお願いしていた関係で、人骨たちは大阪在住となっているが、今回幾度目かの面会に大阪市立大へ行った際、佐賀大学の医学部解剖学教室で人骨などから復顔をも研究されている、川久保善智氏とお会いした。

 他の仕事中を無理を言って、先の若者の復顔をお願いした。正面までの復顔は直ぐには出来ないが、横顔だけぐらいなら、とのことでお願いし、2ヶ月ばかり後に、この世に復活した人物が写真の横顔である・・・・印象はいかが・・

 今のわれわれと最も近い所に住まっていた4000年ばかりは昔の人・・・・髭をそって倉敷製のジーンズでも着せたら、そのあたりの人というところか・・・大変身近にはなったのだが、彼の短い生涯を聞くことは出来ない。

 先日のささやかな会では、瀬戸内の貝塚出土人では、なぜ男性骨が多いのかを、他地域と比較しながら推論したのだが、さきの「よもやまばなし」40話や43話でもこうした問題に触れているので、そちらに譲りたい。今回は倉敷市民の遠い遠い祖先にちょっと会ったつもりになって頂きたかったのである。

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