(127) 銭(ぜに)を拾った - よもやまばなし

(127) 銭(ぜに)を拾った
2012/6/1

 掘り返した畑の土の中に、何か小さい丸い泥まみれのものが・・・因果なことで考古学などというものに、子供の頃から関わってきたせいか、つい、いつの間にか土の中のものに目が行っている。

写真(上)拾った銭は、左から2番目、他の銭と大きさ対比、左端は現代の1円、右端は同10円、1銭は戦前使用

写真(下)拾った銭の表裏

昭和二十二年・五十銭が読める

 ボタン?・・にしては少々薄い?・・・1円玉か・・見過ごしかけたのだが、「1円を笑うものは・・・」など言う古い格言が頭をよぎり、ちょっと手を伸ばして拾ったのが、写真(上)の左から2番目のもの・・・しかし手に取った時は、硬く泥が錆び付いた感じで、色もはっきりしないものだった。

 ポケットに入れたこのものを、忘れてそのまま洗濯しそうになったとき、やっと思い出して取り出した。なんだか縁に刻みがありそうだ。お金にしてはずいぶんと小形、なにかの部品?・・・

 気になり出すとほっても置けない。手で洗ったりブラシでこすったくらいでは全く変わりないので、家庭用のトイレ洗剤にしばらくつけて、砥石で少しずつこすって、やっと写真(下)に見る姿になった。「昭和二十二年(1947)・五十銭」と読めた。

 この1947年は、太平洋戦争敗戦の翌々年、この頃、岡山市内で戦災を受けた、現在の中学生の年令だった者には、日々の生活がいかに大変なものだったかを、昨日のように覚えているつもりだった。食料難・・大変なインフレが続いた・・・

 それでもその翌年には、当時は同町内に住まっていたこともあり、近年国指定史跡となった彦崎貝塚の発掘に、はじめて参加した。今で言う全くのボランテア・・勤労奉仕で、麦飯にろくなおかずも無いような弁当持ちで・・・

 ところでこの五十銭は黄銅製だったというが、これで見るかぎり茶色の銅貨と同じように見える。写真の(上)に、別種の銭を並べたのは、大きさの比較のためである。拾ったのは五十銭のみ。

 いずれにしてもこの銭は、1947年製という以上、当時使用されていた通貨のはずで、貧弱だった筆者の財布にも入っていていいだろう。だが全く覚えのない銭面。写真左から3番目の大正十年(1921)製の一銭銅貨などは、子供の時の馴染み顔であるが。

 昭和一けた代の頃、五十銭玉など、子供がめったにお目に掛かれる物ではなかったが、昭和の20年代になると、当時まだ五十銭が高額だから見た事が無いというのではない。「昭和二十二年」に、まだ「銭」単位の銭が作られていたことへの驚きだった。

 あの頃まだ「銭」が生きていたのだったとは!!・・・戦後すぐの激しいインフレで、「銭」などまったく無用になっていたと思っていたのだが・・・ただ、ちょっと見たインターネット知識では、1953(昭和28)年に、銭・厘単位の貨幣は法律で廃貨になったようである。

 倉敷考古館の開館は昭和25(1950)年11月、このときの一般入館料が30円だったことは、以前にも触れたことがある。この開館当初法律的には、まだ銭貨は生きていたはずということに成るが、まったく使った覚えは無い。使うところが無かったと見るべきだろう。

 それでも何かその頃の物価、特に銭の単位を示すものが残されてないか、考古館内で探してみたが、その頃のものはほとんど見つからない。ただ翌年の昭和26年山陽新聞社刊行、27年度版の『山陽年鑑』が残っていたが、その代金は300円であった。

 そこで新聞代金を、ネットで調べてみると、朝・毎・読の場合、朝刊のみで次のようなことだった。

 1945(昭和20)年この年はさすがに、銭の付く2円70銭, 1946年になると既に8円, 1947年は20円, 1948(昭和23)には不思議なことに、銭単位が付いた44円75銭,しかし1950年は70円だった。 銭単位の付くのは、先の50銭硬貨が作られた翌年までであった。

 いま一つの物価変動を示すものとして、以前からかなり良く引用している、当地の考古学関係雑誌『吉備考古』。戦前から戦後に亘って、吉備考古学会という有志の集まりで続けられているが、そのほとんどが、ガリ版刷りで、半紙に刷られたものも多い。考古館にも全ては揃ってないが、古い部分を後援者から寄付頂いたことで、戦前のものもある。

 昭和16(1941)年、50号の記念号が30銭であった。この頃は会費としての決まりはなく、会誌購入のこととある。問題の昭和22年、この頃は会費制になっているようだが、よく会費金額が分からない。この年の雑誌は74号で、紙上に、再度会費のお願いとして、・・まだまだ未納者が多く、このままでは、必用部数の印刷もできない・・旨が記されている。

 その後に続いて会費既納入者として、40名ばかりの方々の名前が記されているが、平均して20円、多い人50円、1人10円の人もいる。しかしそれ以下はなく、もちろん銭の付くものはない。いったい会費の決まりはあったのか?・・こうした方たちの中には、私どもが近年まで付き合いのあった、先輩方の名も多い。

 特別寄付として別途記されたものには、「用紙多数」とか、100円やそれ以上の人もいる。物納もあったのだ。考古学関係者なら当然ご存知の、甘粕健氏(当時広島県の備後在住)も、彼の師、豊元国氏と共に特別寄付100円とある。全てが、やっと読める程度に保存された、薄い半紙の上に、ガリ刷りで、うすい青のインクの文字である。

 翌年の昭和23年の会費は、25円であった。ちなみにこの『吉備考古』という雑誌は、昭和31(1956)年、91号を終刊号として終わるが、その時の冊子実費は、120円だった。

 やはりこの昭和二十二年製の五十銭が市場に出回る頃には、日常生活では、「銭」の需要は激減し、やっと50銭だけが生き残っていたのであろうが、これとてもたちまちに無用となり、その当時を生きたものにも、記憶に残らぬ銭になったのだろう。現代の2000円札も、僅か後には忘れてしまいそうだ。

 拾ったこの五十銭玉を落とした人も、インフレの真っ最中、探して拾う気もしなかったのか・・・・現代人が、何円玉を落としたくらいの感覚だったのだろうか。

 何の縁か、60年以上もたって土中から拾い上げた五十銭玉だったが、いまや「ぜに」でないこのお金、遺失物で届けたら、交番でどのような顔をされることか・・・警察を愚弄する行為と見られそう・・・・ともかく大切にしておこう。はからずもわが国の戦後インフレの具体像を、改めて思い出すきっかけにもなったのだから。

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