(88) 梅干の種 - よもやまばなし

(88) 梅干の種
2010/9/15

 今年は暑い夏が続いた。それでも考古館周辺では、結婚式やら何かのコマーシャルらしき撮影は相変らずおこなわれていた。

考古館近くで岡山県のイメージキャラクター撮影風景

 今年は暑い夏が続いた。それでも考古館周辺では、結婚式やら何かのコマーシャルらしき撮影は相変らずおこなわれていた。

 左の2枚の写真も、考古館のすぐ近くでの暑い最中の撮影だった。何のためだか知らないが、他人事ながら、ぬいぐるみの中の人物の熱中症が気になった。

 ともかくこのぬいぐるみは、岡山県のイメージキャラクターだが、黄色で星を背負った方は「ももっち」これは桃太郎をイメージしての命名だろう。ピンク色で小柄の「うらっち」は、女の子という想定だが、その名前は、吉備地方の伝説としては著名な、吉備津彦と対決する温羅(うら)から来ていると見てよい。

 共に公募した名前だったと思うが、伝説上の温羅は、吉備津彦と対等に争った勇者であり、死後もなお力を失わない鬼として恐れられている。この温羅が可愛い女の子に変身したことになる。これも案外現代の「温羅」の姿だったりするのか・・・・・

 ももっちのほうも、その名前を聞くと私たちは桃太郎で無く、桃そのものを連想する。むしろ桃こそが、古くから果物王国岡山県を代表する果物・・ここから桃太郎への結びつきも考えられたのでは、と思っていたからである。むしろピンク色のかわいいうらっちのほうが、ももっちに思える・・・・

 桃の特産地は、山梨・福島や長野県のようで、岡山の代表はマスカット・・・とはいえ岡山県が著名な桃の産地であることには、変わりないだろう。この岡山県の一帯で何時頃から、桃は私たち祖先の口に入っていたのだろうか?

 思い出すにしても遠い昔のことになった。その頃既に考古館が開館していたかどうかも思い出せない。高校生だったような記憶があるので、おそらく開館の少し前だっただろうか。60年以上前のことになる。

 岡山市には江戸時代の17世紀後半に、城下町の洪水予防のため、城下を流れた旭川の放水路として、人工の百間川が造られている。それは岡山市街地の北東部に当る原尾島と言うあたりも含み、操山山塊の北裾をぐるりと取り巻いて東から南へと土手が築かれ、海に続くものであった。しかし普段は細い流路があっただけで、土手の内も水田であった。

 60年ばかり昔に、その原尾島の百間川土手内の田地から、弥生時代の土器が出ていると言うことで、地元の人や2~3の仲間とちょっと見に行った時のことである。水田耕土のほとんど表土のようなところからかなり土器片が出ており、今考えても、弥生後期頃の物だったと思う。当時のこと、地元の人の承諾もあって、少々みんなでそのあたりを試掘していた時であった。

 「誰だ!! こんなところに弁当の梅干の種を埋めたやつは・・・」大きな声をあげた仲間がいた。とはいえ当人は、それが今頃食べた梅干の種とは思ってはいなかったようだ。  集まったみんなに見せたものは、黒く少々脆くなった種子だった。確かに梅干の種に良く似た大きさと形だった・・・・結局それは弥生時代の桃の種だということであった。

 それから四半世紀も後のことになるか、この百閒川の改修工事が本格的に行われるようになる。縄文時代以来現代までの生活が続くこの地域、河床のかなりな部分が広く調査されたことで、各時代の遺跡が重なって発見され、岡山平野の歴史を随分と明らかにしたのである。

 原尾島地区でも、多くの遺構が発見されたが、中には弥生時代の住居址や井戸、水田跡なども多く、大量の遺物と共に桃の種なども出土している。四半世紀前に見た遺跡も、こうした遺構の一部だったのだ。

 百間川の沢田地区からは、縄文時代も終わり近い頃の遺溝から桃の種が発見されている。市街地北部の岡大津島のキャンパス内の遺跡からも、縄文時代末頃の桃の種出土が報じられている。このあたりの桃の起源も、その頃までは明らかに遡れそうだ。

 桃の原産は中国とされているが、日本には何時その種が持ち込まれたのか。案外米つくりの歴史と連れだっているかもしれない。

(上)弥生時代の桃の種 岡山市津島遺跡出土
(下)左端梅干の種・右2個現代の桃の種

 その後古墳時代の遺跡や奈良時代の遺跡からも、桃の種は発見されており、『古事記』の中でも国生み説話の中で桃が出てくる。それは、男神のイザナギが、先に死んだ女神・イザナミを黄泉の国に迎えに行くのだが、結局は死の世界の者に追われ逃げ帰るとき、あの世とこの世の境で、桃の実を投げて防ぎえた、という有名な話である。この時、桃の実で助かったイザナギは、桃に対し、自分を助けたように、この国の人々が苦しみに落ちたときには助けるようにといい、名前を与えている。

 中国では古代以来桃の薬用としての効果が伝えられている。葉にも、花にも、実も、種の中の胚子にも。桃の木の板は魔よけともされている。こうした思想もわが国に桃と共に伝わっていたのだろう。

 奈良時代、聖武天皇即位後5年ばかりの729年、まさに天平時代であるが、時の左大臣であった長屋王が、謀反の咎で自殺させられる。奈良時代の天皇位をめぐる、熾烈な暗闘の一つの大きな事件である。彼の平城京内の屋敷跡からは、膨大な木簡が発見されており、彼一族の生活がかなり詳しく知られるようになった。

 その中には、現在の王寺から香芝市あたりの地域から、屋敷に進上された様々な品があるが、「進上桃」と読める木簡もある。量が「三斗五升」と書かれているので、実態はよくは分からないが、長屋王にとっては、桃は「助け」にならなかったのか・・・・

 今考古館では、岡山市内の津島運動公園となっている遺跡から出土した桃の種を、展示している。この遺跡は、現在は国指定史跡に指定されており、先年の岡山国体の際にも調査され、一部が遺跡修景されている。

 ただ考古館展示のものは半世紀ばかりも前の、前回の国体開催時の調査で出土したものである。弥生後期のものと思われるが、これも大きい種で測って、2センチばかりの小さいものである。写真では現在の桃の種も比較で入れた。

 現在の種は同じ白桃でも果肉大小の違いでこれだけ種に違いがある。大では果実は径が10センチはあった。小さい方は7~8センチ。一番小さい現代の種、これこそが梅干の種。この梅も本来は4センチばかりの径をもつ果肉である。昔の桃もその程度の大きさだったのか・・・・

 これら現代の種、実のほうは全て私がいただきました。

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