(206) 両宮山古墳と備前国分寺 - よもやまばなし

(206) 両宮山古墳と備前国分寺
2015/9/15

 先回までに両宮山古墳やその周辺の古墳について、数回取り上げて来た。そこは吉備地方で注目される古墳の集中地域であり、その古墳説明ということでもあったが、実はこれらの古墳が残したものこそ、吉備地方の5世紀代の、真実の歴史を担う一翼という思いもあったからである。

備前国分寺 復元講堂基壇跡の西から東の両宮山古墳を望む
両宮山古墳の墳丘のみの全長約200m
国分寺の寺域、東西180m
両遺跡の間 最短部分は70m

 そのため両宮山古墳にとっては、朱千駄古墳(205話)や小山古墳(203話)よりはるかに近い位置にあり、この地方の遺跡から見た古代全体を語るには、両宮山古墳以上に著名遺跡でもあるだろう備前国分寺遺跡には触れずに来た。だがこの地を訪れる度に、この古墳と国分寺の余りの近さに、両遺跡の間には300年近い歳月はあるが、奈良時代にこの国分寺に住まっていた僧たちは、塀越しにでもすぐ東に迫っていた山・両宮山古墳の墳丘を、ただの山と思っていたのだろうか?・・・それとも荒れ墓?・・・あるいは特別の感懐をもって眺めていたものか・・・国分寺の歴史を考えるより以前に、こうした思いにとらわれていた。

 両遺跡の主軸はずれており、ほぼ南面した国分寺から見ると、両宮山古墳の主軸はやや南東に向いている。互いがもっとも近接したところでは、その間は70m程度に過ぎない。国分寺の建立時、両宮山古墳が全く自然の小山と意識されていたのだろうか。埴輪も無く、葺石も無い全長200mからの前方後円墳が、現在もその墳形をよく止めている。周辺の周濠は、後世田圃の灌漑用池の用途になりうる状況だったといえる。むしろ奈良時代にも保存状況はよかったのではなかろうか。

 奈良時代人が古代の古墳をどのように見ていたのか?・・限られた知識の中で、思い浮かぶものを追ってみる。

 最も有名なのは、九州の磐井の墓だろう。『古事記』にも『筑後国風土記逸文』にも「筑紫君磐井」として語られる人物で、古代における反乱伝承では、吉備の上道田狭よりは著名人である。もちろん『日本書紀』の中でも、継体紀に彼の反乱記事は詳しい。ここでは九州の地での直接の戦闘が語られており、その背景には、朝鮮半島の各国との政治関係の複雑さがある点では、田狭の場合と共通している。

 ただこの磐井の反乱は、実際に九州の地で激しい騒乱があったように記されている。だが『記紀』には彼の墓についての記述は無い。しかし『筑後国風土記逸文』の中では、彼の墓が古老の伝えとして語られていた。ごく要約すれば次のようなことであろう。継体天皇の御代、上妻県(現在の福岡県八女市)に、磐井が生前に造った墓があり、墓域は南北60丈、東西40丈、高さ7丈。そこには、石人・石馬などがあり、盗人を裁く別区もある。官軍との戦いで、磐井が逃げ去っていたのを知った官軍が、怒ってこれらの手足や頭をたたきおった。上妻県に多くの不具がいるのはそのためか、という。

 この墓の条件から、現在では八女市吉田の岩戸山古墳のことと考えられているが、『記紀』に語られた人物の墓として、地元では古老の伝えがあったようだ。磐井が実在人物であれば、この話は200年ばかり後の時代人の、古墳の受け止め方といえよう。

 『記紀』などの中に、天皇や皇后その関係者の墓は、多く記載されている。それらの墓がどの古墳を指すのか、現代にいたるまで、多くの疑問を持つ問題として注目の的である。しかし他の同等ともいえるような多くの古墳や、墓そのものを、奈良時代人はどのように感じていたのか。『記紀』や各国の『風土記』また『万葉集』の中などで、とくに中央政権関係者でない者の墓について、目についたものを拾ってみた。

 『日本書紀』の中では、崇峻紀に物部守屋が蘇我馬子との争いに敗れた時、守屋の配下で、彼の家を守って死んだ捕鳥部萬の飼い犬の話がある。この犬は、死んだ主人の頭を古墓に入れて守り、そこで飢え死んだという。朝廷では珍しいこととして、犬の墓を作ることを命じ、主人であった萬の一族が、萬と犬の二つの墓を並べて作った、とある。『日本書紀』が編集された当時の人にとっては、当時の墓はすでに犬の墓も作るような、個別的な性格も強かったものと言えよう。

 同じく崇峻紀に続く推古紀では、推古天皇が位についたその年に、「始めて四天王寺を難波の荒墓に造る」とある。荒墓は地名であったと思われるが、すぐ近くには家康が大阪城攻撃の際、陣取ったともいわれる茶臼山古墳があり、四天王寺境内には、何処出土とはわかってないが、竜山石による長持形石棺の蓋が、古くから置かれていた。

 こうした石棺を収めた中期古墳が、近くにあったことは間違いないだろう。それが荒墓の地名になった可能性は高い。となると当時では200年足らず昔の古墳は、荒墓という意識はあったとしても、かつての墓の主人公を意識して、新興の仏教寺院をその地に特に建立したかどうかまではわからない。

 『播磨国風土記』にもかなり多くの墓が登場するが、錺磨郡の中に、馬墓の池の地名説話がある。雄略天皇の頃、善い婢と馬を持っていた人物が死ぬ時に、婢や馬の墓も自分と同じものを造れと命じたので、同様の墓を三つ造った。後になって馬墓の邊に池を作ったのが馬墓の池ということである。墓の縁に池を作ったということは、水をたたえた周濠利用であったかもしれない。また古くより三基並んでいた古墳から、男性や女性の埴輪や馬の埴輪が出土していたら、奈良時代人がこのように想像をめぐらしたものであったかもしれない。

 『万葉集』には、今も著名な西求女塚・処女塚・東求女塚のことが大伴家持(19―4211)・高橋虫麿(9―1809)・田辺福麿(9―1801)などの著名な万葉歌人によって歌われている。現在の神戸市灘区から東灘区にかけて、1.5kmから2kmくらいの間隔で海浜近くの台地に並ぶ三基の100m近い古墳のことである。菟原(うない)処女伝説の主人公達の墓。美しい一人の処女をめぐり、二人の男性が争い、結果は三人の死につながる伝承である。(万葉歌人の後のカッコ内数字は万葉集の巻数と作品番号、ご興味或る方は原文で)

 考古学に興味を持つ方々には、説明するまでも無いほど著名な西求女塚は、全長100m以上の可能性もある前方後方墳。16世紀末の慶長大地震で墳丘が壊れたために、石室の一部が保存されており、三角縁神獣鏡を含む12面からの中国鏡などを出土した、最も古い古墳の一つである。他の二基もそれぞれ築造時期は異なっている。

 これら三基の海上からも目立つ存在だった古墳の、名前の由来になった伝承は、いったい何時成立したものかは分からないが、少なくとも奈良時代の文化人にとっては、格好の話題であったのだろう。この物語は、平安期の『大和物語』、ついでは謡曲、明治以後にも森鴎外や川本喜八郎などの作品のモデルともなり、現代も生きているようである。

 『続日本後紀』巻13 承和10 (843)年3月に佐紀盾列陵が二度山鳴りしたとある。佐紀盾列に所在するといわれている、成務陵と神功皇后陵が入れ違って祭られたためということであった。皇室関係の陵には触れずに来たが、平安期に入れば、陵自体が意思表示したようなこうした話は、古い陵墓に対する考え方が、変化しだしたことの表れであろう。

備前国分寺 七重塔跡に建つ、鎌倉時代石造層塔の背後より南を見る。前面すぐ上部には中国自動車道が東西に走り、人家も建て込み遠景をさえぎる。層塔手前の看板には、南向きで備前国分寺と記す。

 以上奈良時代に近い時期の、それぞれに違った古墳に対する考えに触れたのだったが、全体としては、自分達の身近な考えにあわせた、感情の表現に思えた。しかし『記紀』などにも記された事件に関連するような場合では、磐井の墓の例から見て、なんらかの伝承が地元に伝えられていた可能性はある。

 吉備上道の地でも、田狭やその周辺を巡る人々の伝承が、自分たちの偉大な祖先でもあったというように伝えられ、人々の感情の底流にあったのでは・・・・両宮山古墳の保存状況の良さから見ても、当時この地に生きる人々の、古墳に対する思いを見るようである。国分寺の建立が、国家の号令であっても、この地に寺を造ったということが、何であったのか・・・

 日々この寺で読経した僧侶達が、全くの無関心であったとは思われない。あの古墳の中に、国家の力で吉備の思いと歴史を封じ込めていたのか、それとも過去の多くの祖先たちに祈りをささげていたのか・・・・

 今寺跡に立って、南を望むとき、奈良時代からの歴史からで見れば、あまりにも急激な変化を見る中で思う感慨である。

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