(137) 中世草戸千軒町の銭 - よもやまばなし

(137) 中世草戸千軒町の銭
2012/11/1

先回の話題で、広島県ではあるが、倉敷市には近い福山市の草戸千軒町遺跡に触れた。

広島県福山市芦田川河床の草戸千軒遺跡で、調査中出土の埋蔵銭2例

(図は『草戸千軒町遺跡発掘調査報告Ⅱ』1994年による

 ここは現在の芦田川河川敷だが、千軒町の地名も残るように、中世の港町的な言わば都市遺跡。ここで大量に出土した当時の焼き物片で製作された小円板を、その頃の地域通貨では・・・・と空想的な推測をしたものだった。

  当時の通貨一文銭は、その殆どが中国からの輸入銭だったので、充分にある物ではなく、町場の近回りでは、代用銭が通用したのでは・・・というようなことを言ったのだが・・遺跡をよく知る人からは「何が銭不足だ・・・近年の政府と同じ、埋蔵銭があるじゃないか!!」と言われそう・・・・・

 実はこの遺跡からは、大量の一文銭が発見されているのである。

 今からほぼ80年前の1932年と翌1933年に、芦田川の河川改修中、中州から2度にわたって、95kgと16kgもの1文銭の塊が発見されたのである。それらは25,300文とか4,200文だったようだ。

 2次世界大戦も終わってしばらくの後、芦田川の河床掘り下げが行われることになり、草戸千軒町遺跡の事前調査が行われた。当時としては、中世遺跡に対する先駆的な調査の一つだったといえる。

 この調査は1973年頃からだったが、この調査でもまた二度、銭が発見された。その一つは重さ19kg、この銭は100文(実際は約97文)を棒状に束ねた1?(さし)を50?まとめた物が、錆着したものだった。約5000文ということである(上の図参照)。

 いま一つは埋甕の中から、12,591文の銭が発見されたのである。これも中は?に成っているものが多かった。この銭を入れた甕は亀山焼だった(図の下)。

 実は亀山焼きは、現在の倉敷市玉島八島・・というより新倉敷駅のすぐ西北に当る、神前(かんざき)神社の境内や、周辺一帯に残る窯址で生産された中世の焼き物である。西日本では、備前焼と共に、ちょっと名の知られた焼物。草戸千軒町遺跡でもかなり多くの亀山焼きが使用されていたのである。

 ところでこうした芦田川河川敷から発見されていた多くの埋蔵銭は、それぞれの銭の種類から見て、同時に埋蔵された物でなく、13世紀後半から、14世紀後半頃の間に埋められた物のようだ。丁度鎌倉末の南北朝期ということだろうか。

 埋蔵銭の発見は全国各地に広がっており、しかも何万文・何十万文というのも多い。埋蔵時期もかなり長期にわたっている。

 有名な物では、北海道函館市の志(し)海苔(のり)から、37万文以上・・推定では50万はあったのでは・・が大甕3個に入って発見されている。大甕は越前焼2と珠洲焼1であった。この中には、わが国の奈良時代の皇朝銭、中国では前漢代の銭から、明銭まで。しかし永楽通寶(初鋳1408年)がないことから、14世紀末までには埋納されただろうとされている。最も多い銭は11~12世紀の北宋銭であった。

  東京都の多摩ニュータウンなどでも、3箇所の穴から27,015文も発見されているが、ここでは永楽銭を多数含むが、おなじ明銭でも宣徳通寶(初鋳1433年)を含まないことから、15世紀もかなり早い時期に埋納されたものだろう。

  九州の熊本県阿蘇郡南阿蘇村出土では、備前焼の壷に入って、7870文が、発見された。ここでは宣徳通寶が100文以上も発見されている。明銭が20%もはいっていたようである。15世紀も半ば以後の埋納であろう。この時期、備前焼は広く版図を広げていた頃である。

 既に半世紀近くも前のことになるが、考古館では備前焼の基本的な編年作業を行った。今もその編年の基本は変わってなく、考古学研究の上で、中世の時代基準の一つにもなっている。この編年の中で、室町期の中でもやや新しいものと考えていた、肩に飾りの耳をつけた壷、この形の壷が、推定通りの時期に熊本県の阿蘇でも使用されていたのである。

 あちこちの埋蔵銭(備蓄銭)を見ていると切がないというくらい出土してはいるが、それでも決して何処にでもあるという遺跡ではない。当時の交易や交通、軍事の要地などを思わすところで、日常の庶民生活中、どれほどの銭が使用されていたのかは分からない。

 大体当時の、日常生活の物価などよくは分からないのだが、現在の神戸市にあった兵庫北関で、室町時代の1445(文安2)年のこと、この港に入ってくる船の積荷にかかる関税を記した記録が残っている。(この関は、東大寺に寄進されているので、税金は東大寺に入るため、記録が東大寺にのこった)関での税率は原則百分の一、つまり1%。そこの税金額を100倍すれば、大体の価格が分かると言うことだが・・・・

 この当時は枡の大きさも地域でまちまち、積荷によって単位もみな異なるため、なんともよく分からない。大体換算した額として、米1石1貫文(1000文)前後、塩はその半分前後のようだが、その前後幅も大きい。

 その記録のなかで、岡山県人ならよく知った港の船による、身近な食品の積荷関税記載例・・・連島船では塩200石・大豆30石、その関税は1000文・・下津井船では小鰯18駄で300文・・番田船(児島郡・現在玉野市)では海月100合・小麦1石で90文・・牛窓船は海老22駄・小豆5石で700文・・同じく牛窓船は塩鯛25駄で520文・・・淡路島の由良船ではカニ4駄で80文・・・

 一駄といったら馬1頭に積む量というが、品目別の量はどれ程なのか、先の金額が1%とすると塩鯛1駄は2080文、蟹は2000文、小鰯は1670文ほど、くらげの「合」単位は、干しくらげか、塩くらげか?                

 草戸遺跡の銭からまた随分と大風呂敷になってしまったが、とてものことに庶民の一杯の飯代にはたどりつけなかった。例の小さい土器の円板、案外後の「つけ」のサイン代わりの証拠品か・・・大体田舎では、80~90年も前頃になっても、多くの物の払いは、盆・暮れのつけだった。「考古学」などと言ってあまり難しいことを考えぬほうが、正解かも・・・

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