(168) 二つ並びの埋葬(その2)山口県・赤妻古墳 - よもやまばなし

(168) 二つ並びの埋葬(その2)山口県・赤妻古墳
2014/2/15

 先回は岡山県の千足古墳で、新たな石室らしい構造が発見され、九州そのままともいえる横穴石室の埋葬と、古墳中心部に並んでいたらしいということで、神話海幸・山幸の物語をちょっと真似た、おとぎ話で失礼。

山口市赤妻古墳の舟形石棺
『考古学雑誌』18-4 1928年より転載  現在は山口県立博物館で野外展示

赤妻古墳石棺略図 『考古学雑誌』18-4より
(左)箱形石棺 (右)舟形石棺

 というのも、実は千足古墳の様相とは違ってはいるが、千足古墳以上に海幸・山幸物語と似た例と思われる古墳が、以前から気に掛かっていたこともあってのこと。現在は山口市内である赤妻古墳での状況である。

 千足古墳が掘られたのはほぼ100年前の1912年のことだったが、この赤妻古墳は、それよりなお古く、1897(明治30)年から翌年にかけて、1基の箱形の石棺と、これに付設されていたような石つくりの構造物が発見されたと伝えられる。それから11年ばかり後に、先の石棺と9尺(2.7m)ほど離れて並んだ位置で、立派な舟形石棺が発見されたのである。この古墳は既に消滅し、墳丘などはよく分からないが、径30~40mばかりの円墳ではとの推測もある。

 この二つの石棺は、現在も山口県立博物館で野外展示され、自由に見ることができるが、1928年の考古学雑誌18-4に弘津史文氏がこの古墳の報告を載せている。その雑誌巻頭には、左に示したような舟形石棺写真が掲載され、文中には右図のような略図があるので、参考までに転載させていただいた。ただここでは両棺の大きさだけはそろえた図に訂正した。

 箱形の石棺も内部に加工があり、一般的な平石だけを組み合わせた箱形石棺ではなく、意識して制作された箱形石棺であった。舟形石棺は立派な加工で、現在ではこの石棺だけが山口県指定文化財となり、覆い屋の下に置かれている。二棺は墳頂に並んでいたにもかかわらず、現在では舟形石棺だけが重視されているようだが・・・・

 舟形石棺が箱形石棺より11年ばかり後に発見されたのは、先の報告を見る限り、どうも古墳が土取りで壊されだしての出土のようだ。全くの推測だが、舟形石棺のほうが以前に発見の箱形石棺より、少し深い位置に先に埋葬されていたのではなかろうか。

 両方の棺内や周辺からの発掘品は、当時は警察を通じ、国に提出されている。これが今では国立の博物館や、宮内庁などの蔵品になっているのである。・・(実は現在でも、偶然の遺物発見だけでなく、正式な発掘調査での出土品全てが、遺失物法によって、書類が警察に届けられており、それから文化財として保管が決まるのである。)・・赤妻古墳の遺物は、全てではないが現在では東京国立博物館(東博)の蔵品になっている。

 東博の所蔵品に関する記録と、弘津氏の報告では、両棺出土の遺物にかなりの出入りがあって、正確とは言えないが、箱形石棺の方には鏡1面のほか、多数の刀や鉄鏃、また此の棺に付属していた副室状石組から、甲胄や矛、斧に巴形銅器や穴の開けられた貝殻なども出土したようだ。

 一方舟形石棺の方は、鏡3面のほか各種の玉類が多数出土、櫛や針も出土したらしい。棺外から刀出土とある。鉄製品や布の痕跡らしいものも多かったようだが、しかし何分にも記録に錯綜が見られ、両石棺の副葬品がそれぞれに正確かどうかは、分からない。

 この古墳発見から30年ばかりを経ているとはいえ、昭和初年という古い時期に詳しく検討した弘津氏は、両石棺の副葬品から明白に男女の棺とし、舟形石棺の主を女とし、棺の優劣はあっても、両者は主従でなく夫婦と考えている。古墳に副葬された遺物だけで、男女が確実には判定できないが、赤妻古墳の様な場合,つい常識で男女と思いたくもなる。

 また舟形石棺については、かつては立派な石棺は、全て畿内の文化を示すものとの常識から、この古墳を畿内と地元を表現するもののように考えられていた。しかし私ごとになるが、倉敷考古館に勤める私どもの、石棺石材を基本にした全国的な石棺研究により(主に『倉敷考古館研究集報』9~12号1974~76年、『石棺から古墳時代を考える』同朋社1994年など参照)、現在では注目される主要な舟形石棺は、四国・九州・山陰・北陸にあり、近畿地方やその他の地でも、舟形石棺として周知されていたもののほとんどが、四国や九州から運ばれていたことが、常識となっている。

北部九州の砂岩製舟形石棺
(上)福岡県糸島郡二丈町長須隈古墳(松浦砂岩)
(下)福岡県嘉麻市稲築町沖出古墳

 特に砂岩製の赤妻古墳の場合は、九州産の可能性が強い。九州の唐津沿岸の松浦には砂岩産地があり、周辺にはここの石材産と見られる同様の石棺があり(右の図参照)、山口県にも砂岩産地はあっても、周辺には舟形石棺はなく、石棺製作の技術から考えても、赤妻の舟形石棺は、唐津湾岸辺りより運ばれたと見られる。

 「松浦」といえば『魏志倭人伝』の時代から、「対馬・一支(壱岐)・末廬(松浦)・伊都・・・」とあるように朝鮮半島へ渡る要地である。古来いらい水運の拠点であった事は、後の歴史においても著名であろう。

 いずれにしても性格の異なると見られる二つの棺が、墳頂に並んでいたこと、しかも舟形石棺の主は、千足古墳の主同様に、九州が故郷ではと思われる点が、両者よく似ている。また両古墳には、巴形銅器を伴っていることも、時期と性格の近さを示しているだろう。

 ここにも海幸・山幸のルーツが有るのでは・・・・こうした話は目立つ古墳で残らなくとも、当時の多くの人たちの身近にあった、海外竜宮城往来物語の中の、一つであったのではなかろうか。現代人の想像以上に、当時の人々の行動範囲は広く、そこに夢やロマンもあり、時には「ほら話」に興じたり、だまされたり・・・・けっして大和だけが中心でなかった、神話の彼方に見える世界。

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