(34) 砥石 - よもやまばなし

(34) 砥石
2008/7/1

 鎌だとか鍬とか、知っているのが当たり前の農具として、話してきたが、最近では鎌など、実物を見たことも無い若い人も多いようだ。前回や前々回には、古墳時代の鉄鎌の写真を載せてきたが、「どこに鎌があるのだ」とか「おかしな形の鎌だ」と思われた方は、たいへん注意深い人か、実際に鎌を使ったことのある人だと思う。

長福寺裏山 東塚出 土鎌

東塚出土 携帯砥石

 先般来の写真に示した鎌は、現代の鎌からは一寸想像し難い形である。鎌など使ったことの無い人は、1600年も昔のものだから、形の違うのは当たり前、と案外平気で受け入れられるかもしれないが、鎌を使ったことのある人は、長方形の板状鉄板に柄を付けただけの形では、鎌としたらずいぶん使いにくかっただろう、これが本当に鎌なのか、と思うのではなかろうか。

 金蔵山や神宮寺山古墳の鎌は、当時の鉄製品の素材と考えられている、細長い長方形の鉄板(鉄?)を、分割しただけのものを基本として製作されている。鉄素材が多少豊富になっても、鍛冶技術を急速に広げられるとは限らない。大量に必要な鍬や鎌のような農具は、あまり加工に工夫がされてない時期である。それでもこれらの鉄製農具は、木や石の素材に比べ、格段に使い便利な、しかも長持ちのする道具だったのである。

 とはいえ、我々の祖先はすぐに、道具を使いよくする工夫をしている。鉄鎌の先端が内側に湾曲するには、余り時間はかからない。5世紀も後半になってくると、左上の写真に示したような鎌が使用されている。

 これらは笠岡市の長福寺裏山に連なる古墳の一基、本来は50mばかりの前方後円墳であったが、半分以上削り取られていた、5世紀後半の東塚古墳石室に、残存していた鉄鎌である。この一連の古墳群は、たまたま神宮寺山古墳が盗掘されたと同じ年の、1961年に笠岡市の依頼で、倉敷考古館で調査・整理し、1965年に『長福寺裏山古墳群』として報告書も出版した。

 現在これらの古墳出土品は、笠岡市に保管されているが、それらの中には、左の写真のような石製品2点もある。長さは共に7~8cmばかりで、厚さは1.5cm足らずの不定形な短冊形だが、一端に穴があり、しかも石の各面はツルツルに磨研されている。

 鎌も持った事の無いような考古学者なら、何の装飾品かなどと、頭をひねる遺物かもしれないが、近年まで大量の草を必要とし、草刈が重要な農作業だった頃には、このような携帯用の砥石は必需品だったのである。

 鎌などは、草や稲刈用だけでなく、枝を払ったり少々の木など叩き切ったり、用途に従って形を変えている。それだけでなく、切れ味を良くするには,刃をよく研がねばならない。携帯用の砥石は、切れ味の悪くなった刃の上を、この小さい砥石で磨くように擦ることで、また切れ味が復活する。仕事の途中で簡単に出来る、磨研道具なのである。孔に紐でも通して、腰にでもぶら下げていたものだろう。

 この「よもやま話」の3では、鍛冶屋道具とセットで発見された、普通に置いて使う砥石を示したが、携帯用砥石は日常の刃物とセットで、古墳の副葬品に必要なものだったのだろう。発見の実例は決して多くはないが。

 ところで私事ではあるが、私も草を刈るときは、砥石のかけらに水をつけて、鎌の刃を擦っている。それだけのことでずいぶん鎌の切れ味が良くなることは、身をもって知っている。同時に、同じ砥石といっても石の質で、いかに研ぎ味が違うかも知っている。我が家の小さい砥石のかけらは、大変よく刃のつく良質のもののようだ。随分と昔から使っている。最近の砥石片ではどうもよくない。小さい砥石のかけらが磨り減ってしまうのと、こちらが老化して草が刈れなくなるのと、どちらが早いのだろうか。

 〔ある記憶より〕

 今回は日記に記されていた事ではないのだが、少なくとも10年くらいは前の事だっただろう。

 当時は神戸市にある、竹中大工道具館を、時々訪ねる機会があった。たまたまそうした時のことである。その時の展示の一つに、余り大きくない覗きケース全体に、各種の砥石が陳列されていた。中には使用によって、激しく磨り減った砥石がかなりあった。

 偶然に5~6人の中年以上と思われる男性が、そのケースを取り囲んで熱心に見ていたのである。その時一人が、こんな良い砥石がある、というような事を言っていたと思うが、中の一人は「このケースごと担いで行きたい」ともいっていた。

 そこに展示されていた砥石が、そのように大変良質なものなのかと、驚くと共に、その砥石を、見ただけでほれ込んでいる人達は、これこそ本当にプロの大工職人というのか、道具の切れ味の重要さを知る技術者なのだろうと思ったのである。と同時にここはさすが大工道具館だ、見学者も違うと、感心したのである。

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