(23) 千足古墳石室写真(写真家中村昭夫氏を悼む) - よもやまばなし

(23) 千足古墳石室写真(写真家中村昭夫氏を悼む)
2008/3/11

 考古館入口の壁には7点ばかりの遺跡写真をパネルにして、展示している。その一つに千足古墳の石室写真がある。この古墳は、岡山県下に限らず、多少とも考古学を専門に勉強した人であれば、解説などは不要の著名な古墳であろう。

岡山市新庄下千足古墳の石室内石障
(写真パネルを再度デジタルカメラで複写しているので写真は不鮮明である。本来の写真ははるかに良い)

 現在はかつての備前国の中心であった岡山市に合併し、同市の最西端地域、新庄下千足に所在するが、この地は本来は備中国、古墳時代中ごろには、吉備国の中枢部ともいえる地だったのである。と言うのも、この古墳は、全国的に見ても第4位の規模を持つことで知られる、全長360mの大前方後円墳・造山古墳の南に連なる注目される一群の古墳の、一つなのである。

 しかも全長70m余の前方後円墳で、中心の石室は九州の初期の横穴石室とそっくりの造り、中には九州から運ばれたと見てよい、石室の障壁となっている板石があり、これには写真に見るような、不思議な呪的とも言える文様(直弧文)が刻まれていることで、装飾古墳として広く知られてもいる。

 ところでこの古墳は、外形はいつも見られ、墳頂にも登れるが、深い石室内部には常に上面近くまで水がたまり、墳頂に穴はあるが中に入れないのはもちろん、石室も良く見えない。いくら水を換えだしても常に湧出する状況のため、これを常時見得るようにすることは、古墳の破壊にもなり兼ねないので、必要時にだけ水が抜かれている。

 考古館入口の千足古墳の石室写真は、40年も前のものである。独特の雰囲気を持つこの写真は、写真家中村昭夫氏の写真と言いたいところなのだが、実はその「盗作?」なのである。

 中村昭夫氏は、この2008年2月8日永眠された。享年75才で急逝されたともいえる、あまりにも早い訃報だった。1月2日には、倉敷考古館近くの白い実をつけている栴檀の木周辺の写真シャッターを切られたと聞く。

 中村氏は写真界では説明不要の著名作家だが、終生生まれた故郷倉敷から、地域の文化・生活・自然の真髄を写真で発信し続けられた。半世紀以上も前、岩波写真コンテストで特賞受賞、1957年、岩波写真文庫で『倉敷』を処女出版されて以来、多くの賞を受賞、多くの写真集出版は、個々数え上げられない。

 こうした中村氏とのお付き合いは、同年輩であり、同じ倉敷で仕事をする者という以上に、遺跡・自然、そうして中村氏によって広く紹介されたといっても過言でない倉敷の町並みの保存などを通じ、深まったと言えよう。

 多くの交流の中の一つ、この千足古墳での石室撮影は、中村氏が「吉備の国」に視点を定めで精力的に写真を撮られていたときである。千足古墳の石室水抜きなどの面倒な手はずは、全て中村氏がされ、写真撮影可能な時に、同行を誘われた。

 自分で努力することも無く、めったに無い機会を与えていただいたことを感謝しながら、石障の拓本をとり、しかもプロ写真家の苦心のライティングが出来たとき、自分のカメラでシャッターをきらしてもらったのが、実はパネルにしている写真なのである。これは中村氏の写真の盗作以外の何ものでもないだろう。中村氏がそれを勧めて下さったのである。氏はそうした人だった。

 倉敷の町の保存には、地元で難しい立場にありながら、同氏は通さねばならぬことでは、決して説を曲げない正義感の強い中で、気配りの届いた方だった。写真での業績を別にしても、倉敷にも私たちにも、余りにも惜しい人の余りにも早い旅立ちを、心より悼むものである。

倉敷考古館日記だより
1968年3月18日 月 快晴

 今日は休館日、・・・中村氏等と千足古墳へ、途中倉敷へ拓本道具などを取りに行く。午後7時過ぎまで写真・拓本をとる。夜9時ごろ帰る。

3月19日 火 晴

 今日も千足へ、拓本などとりにいく。昨日より床にかなり水が溜まっている。・・

 (この時とった直弧文の拓本は、現在写真パネルの下に展示している。)

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