(124) タイムトラベルの停車駅 (前編)上東港の番人 - よもやまばなし

(124) タイムトラベルの停車駅 (前編)上東港の番人
2012/4/15

 先回「タイムトラベルの切符」などと言った手前、ちょっとその切符が示していた時代、2000年ばかり昔を覗いて見よう。それもたまたま話題とした、倉敷市の上東遺跡の辺りへ・・・・・

 ところで現在の上東を巡る一帯は、いちおう田園地帯ではあるが、JR山陽線・山陽新幹線・各種の道、国道・県道・農道が行き交い、倉敷市街地にも続き、住宅地化の激しい平地や低丘陵の広がる地域である。ここから10kmで円を描いても海に到達することは出来ない。

 上東一帯で、地表から上土を少々めくった辺り・・・・ということは既に2000年も昔にタイムトリップしているのだが・・・その世界ではあたりにはかなり広々と田んぼが広がり、草葺屋根とはいえ集落は、そこここに見られる。

 しかしその集落に近いところで、少々大掛かりの焚き火などしているのかなと思ったら、なんとその向う南の一帯に見られるのは、水面・・・瀬戸内海ではないか。煙の正体は海辺近くで、幾つもの土器に入れた海水を煮詰めて、塩つくりの最中だったのだ。・・・製塩土器や、炉跡などが土中にしっかり残されていた。

 現代では広々とした平地は、南の丘陵につながっているが、2000年ばかり前のそこには、瀬戸内海があり、点在する丘陵や山々は海の彼方の島々だった。耳を澄ましてみると、海浜近くでは賑やかな人の声・・・ああ・・港があるのだ。はるか西の国から大形の船が着いたとか・・・

 上東の村々の南の海岸には、当時の内外の海を繋ぐ、最新の大型船といえるような船まで、着岸できる港が築かれていたのだ。岸には、かつては長さ1.5m以上、太さも10cm近くはあっただろうかと思われる木杭が、幾列も並んで打ち込まれ、土や木で固められた護岸が作られている。当時としては最新の港・・・2000年も後の世まで土中に残っていた。

足守川の改修で発見された、壷のかけらに描かれた模様、港の風景か

 上に挙げている絵は、その頃の壷の幅広い口縁部のかけらに、線描きされていたもの。これは、報告書から多少分かりよくスケッチしたもの。発見されたところは、上東の港の位置から北に僅か2kmばかり、港から内陸に続く水路として重要な交通手段となった、足守川の川岸であった。まさに港と一帯の所。

 この絵には側面と上面観が一緒に描かれたもののようだ。子供の絵というか、江戸時代の地域図などにも似ている。一番手前は側面観で、港の護岸か?杭が立ち柵が廻らされている様子、その向こうには船首・船尾共にそりあがった一隻の舟、その手前には4人の人が立つのか、それとも4つの櫂が立てられている表現なのか・・・ともかく大きな舟が泊まっている。

 この舟の上(向こう)には、いま一隻の舟が描かれているが、こちらは上面観で、多人数で櫂をこいでいる状況・・・今到着したのか、出港しているのか?・・・その舟の右方が複数の線で区切られているのは、船着場の上面観だろう。そこから三方に道のような表現があるのは、港から水路が各地に続く意味ではないか?・・・

 これは「吉備の津」の案内図ともいえよう。右端手前の大きな団扇のようなものは、港の会所の印では?・・・その右の大きな塊は、食料や交易の品々の荷の表現にも思われる。・・・・そうしてそこで出会うのは・・・・

土器に描かれていた二つの顔

港のあった近くから出土の小鉢、裏面には最下に示した絵を描く

現代人も似た顔を作る。

 上に挙げた少々奇妙で怖い顔二つ、これは実は、この港近くで発見された弥生時代後期の、小鉢の胴部4箇所に描かれていた、四個の絵の内の二つである。港図同様、報告書からの筆者のスケッチ画で申し訳ないし、朱色もこちらで勝手に付けたもの・・・・はるばると始めて港を訪れた人は、先ずはこのような顔と対面したのだろうか?

 先のスケッチ画の下に並べた2つの顔、もしすぐ何か分かっていただけたら、筆者の腕もまんざらではないと・・・・(これは筆者が少々勝手に、絵や写真などを参考に、下手なイメージスケッチをしたもので、申し訳ないがご容赦を)・・・というのも何時の時代も、人の顔の表現には似た意味があるのではということで・・・・ 

 これらの顔、左は歌舞伎で多い隈取の化粧。右は鬼の面、先の隈取とよく似た顔面の凹凸が表現される。両方とも、強い意志の現れた時の、顔の筋肉や浮き出た血管の表現から来たもののようだ。これらは強さの表現であり、共に悪にも善にも利用される強さと意志の表現法といえよう。

 港で出会った顔二つ、これも先の現代人の中に今も生きる、異相といえる顔の表現と同じような物なのでは・・・・それが仮面であったり、刺青であったり、彩色であったり、時によって違うとしても・・・・まずは相手を一応警戒する必要があったのでは・・・これは人間の本性として現代人とも共通・・・

顔が描かれていた土器の他の部分の絵

 だが四面の絵の他の二面は、先の絵の裏面に当たるが、ここにあげたようなもの。現代人がこの絵に様々な想像するのは、勝手だが、やはり本当の意味は、弥生人語の記号だろう・・・・

 表の顔と裏の顔、弥生人も、大きな港の周りでは、既に外交交渉が忙しくなっていたのだろう。この港では中国の銭・貨泉も、占いをする卜骨なども発見されている。

 (ここで扱った遺跡の報告書は『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告94』1995年と『同 157』2001年岡山県教育委員会刊行で、遺物は岡山県古代吉備文化財センター保管)

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