(114) 水の無い川の橋 - よもやまばなし

(114) 水の無い川の橋
2011/10/15

 左下の写真を見て、これが川に架かっている橋だとすぐ思えた人は、随分と世界の橋に詳しい人・・・・「イヤー・・タイトルを見ていたから分かった」と言う人は正直な人・・・ともかく道路?鉄道?水道?・・と色々思えるだろうが、この写真だけなら、私など下の平地が川だなど思いも及ばない・・・この二段ドームの続く構造物は、下段はダムの役をし、上は人や車の通る330mもある立派な橋なのである。

イランの川に架かる橋

イスファハン市内

イランの川に架かる橋

王の道のキャラバン宿の前の橋

 たまたま川の両岸は写真に無いが、立派な護岸工事のされた川岸なのだが、目の届く限り川の中には水は無い。

 右上の写真、これもレンガでドーム状に構築された橋であった。ここにも下には水が無い。かつては多くのラクダを引いた隊商がラクダと共に宿った、キャラバン宿の前を流れた川に架かっていた橋である。この川岸には、水を求めるラクダが群れていたはずだ。

 「何処の話をしているのだ?!・・・倉敷周辺の話ではないのか!!」

 「申し遅れまして、大変失礼をいたしました。ちょっと地球を4分の1ほど西に回転したあたり・・・イラン国で目にした橋・・・先日団体ツアーの駆け足で、ペルシャの遺跡を見たついでのことで・・・」実は「ついで」の方に、思いの残ることが多かったようだったが。

 左の写真の橋が架かるのは、16世紀頃の首都でもあり、かつては世界の半分とまで称されたイランの都市イスファハンを流れる川、時期により川に多くの水が流れ、これが都市をはぐくんできた原動力だったのだろう。それでも水は貴重で、大河でも堰き止めて溜めることが多かったのが橋の構造から窺えた。

 右の写真の橋を目にしたのは、紀元前550年頃に、ペルシャのアケネメス王朝を興したキュロス大王の墓や、その都の遺跡が残ることで知られたパサルガダエから、先の橋のあるイスファハンへの道筋でのことである。

 かつては「王の道」と呼ばれた路が砂漠の中に続き、オアシスのあるところに宿が設けられていたと言う。砂漠の中で、僅かに水の流れも見られたオアシスの地だからこそ、設け得られた橋だろう。

 この橋の下の川は、数年前にはまだ水があったそうだ。だが近年ダムが出来て完全に涸れた、と地元のガイド氏は説明した。大掛かりなダムではないだろう。先の下段がダム構造だというような、2段構えの橋からも想像される。僅かな状況変化でも、地表の水に大きな影響をあたえる厳しい砂漠の環境と言えよう。橋も始まりは16~17世紀ごろと言う。近年までは生きていた施設であったようだ。

 この地にはまだ樹木の名残が見られたが、水が涸れ人も去ってしまうと、この地は早晩砂に覆われてしまうのか。水さえあれば、豊かな地であっただろう。

大原美術館前の今橋

架け替え前の旧今橋(現高砂橋)

 実はこうした水の無い川に架かったドーム状の橋を見た時、日常倉敷で見慣れた右の写真に示した橋を思い出したのである。この橋、倉敷在住者はもちろん、大原美術館やその界隈に関心を持った人であったら「あ々 あの橋か」と思われるだろう。倉敷考古館前の倉敷川にかかる中橋の上から、川上に向いて川面を追うと、嫌でも目に入るのがこの橋、「今橋」である。大原美術館の正面に架かる橋である。

 現在の今橋は、1925(大正15)年5月に架けられたもの。外見はがっしりした石造りドーム状の橋桁だが、中は鉄筋で作られている。ただ外装は全て石で、平石をめぐらせた石の欄干は、外面陽刻・内面陰刻の竜がうねる彫刻で飾られている。

 この竜が、大原美術館の泰西名画収集に当った児島虎次郎画伯のデザインであることも著名で、周辺一帯と共に今では観光スポットでもある。

 架け替えられるまでは、写真(右)のような、この川にかかる他の橋と同じような橋であった。この写真の橋は、用済みとなってからは、市内の他所で高砂橋となって再利用されていたが、今ではまた用済みとなり、今度は考古館前の中橋から川下の前神橋の脇にかけられ、歩道用の橋として利用されている。

 この橋は高砂橋名の付いたままで架け替えられたので、今ではかつての今橋だったと知る人も少ないのではないか。この今橋の架け替えは、1925年昭和天皇がまだ摂政宮だった時、この地に来られることとなり、急遽架け替えたものだった。

 倉敷川の水運が既に大原家より川上では必要でなくなっていたことが、川幅も高さも少ない船の通らないドーム形の石橋からも知られる。当時はまだ中橋の下手まで、大原家の起業した倉敷紡績会社へ原綿を、船でも運んでいた時期であるが。

 倉敷川には水があるのは当たりまえ、今橋や考古館前の中橋の下の水が涸れることなどに、今この河畔を歩く人々で、思い及んでいる人がいるだろうか?この川は、本来は干拓が進む中で、澪筋が使用によって運河となった、「汐川」と言うことは、この「よもやまばなし」でも幾度か繰り返した。

 川の先端の児島湾が締め切られてからは、この倉敷川は、常にどぶ川底のような汚い姿で半ば干上がっていたのである。農業用水路から、水が不要のときは流れ込むが、常時流水の入る水源を持たぬ川なのだ。

 今では下水の流入さえなくなったこの川には、南の水田へ水を引く用水川から水を引き、またわざわざポンプで用水川へ水を返している。砂漠の国でなくとも、用水川からの水がなくなると、今橋も中橋も、いつでも水の無い川の橋になるのである。

 文明のおごりが、自然の力の中にいかに弱いものかを、思い知らされたのが、今年の日本であろう。私たちも、現在自分を取り巻く様々なものや状況が、「普通のこと」となって、何も感じなくなっている怖さを、忘れているようだ。

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