(55) 美星町竪穴住居址復元 - よもやまばなし

(55) 美星町竪穴住居址復元
2009/5/1

 2009年3月22日の朝、新倉敷駅まで自分の車で迎えに来てくださったのは、井原市美星町の岸本剛一氏だった。41~2年も昔、同じ岸本氏の運転で、どれほど美星町内一帯から矢掛や倉敷までも行き来したことか。この日は、その41年も昔に建てた弥生時代住居跡の再々建行事に参加のためだった。

1968年4月1日復元風景柱を立て棟木を上げる
地震はこれより少し前だった

茅による屋根葺き中1日でほぼここまで出来上がる

 美星町が井原市に合併したのは、平成の大合併2005年でつい近年のこと、いずれにしてもその町名のように星の美しい(本来の町名由来は、地名の三(美)山と星田の合体)広々とした標高300~400mの高原地帯、吉備高原の南端なのである。

 この高原地帯の一角五万原で、弥生時代も最末期、古墳時代が始まろうとしていた頃の竪穴住居址が、農道の断面で数基発見され、依頼を受けて倉敷考古館で調査を行ったのが1965年のこと、当時は教育委員会勤務だった岸本氏を始め、当時の町の方々とのお付き合いが始まったのである。

 その時と1967年の2次にわたって調査した、五万原住居跡の一基を復元したのが、今回再再建した竪穴住居である。40年間に2度目の建て替えは、最初は復元数年後の火災事故のためだったが、今回は老朽化のためである。もともと当時の住居なども、20~25年程度で屋根替えや再建が必要だったはずである。昔は20年というのが一世代、伊勢神宮の建て替えが20年というのも、古代の実態の伝承であろう。

2009年3月22日「中世夢が原」の中で、
屋根の茅を整える人達

2日間でここまで出来ていた。
当日は雨になって、作業は中止

未完成だが内部はほぼ仕上がっていた

 この時の調査は『倉敷考古館研究集報 第5号』の中で「岡山県五万原遺跡」として1968年10月に報告したが、この中には左上のような住居址復元中の写真をいれている。これは同年の4月1日のことなのである。この写真を見るたびに思い出すのは、作業中での思いもかけない強烈な足元の揺れだった。地震である。

 ほとんどの人は、建てかけたばかりの丸太の木組みの上だった。みんな柱にしがみついた。よく柱ごと倒れなかったとは後で思ったことだ。当日はちょうど月曜日で考古館は休日。館内の展示品に何が起こっているか気掛かりだったが、当時このような場所では、震源地さえ不明。電話をかけるのも大変。「ままよ・・」とそのまま作業を続けたが、展示品はかなり無茶苦茶になっているだろうと覚悟していた。

 この4月2日の考古館日記には「・・昨日米国ジョンソン北ベトナム全面停戦発表、日向灘地震もあり、色々・・美星町では弥生住居の棟上・・・」とだけ。

 この時の日向灘地震、岡山ではほとんど話題にならなかったが、高原での揺れは、なまじな物ではなかった。ちょっと調べてみると、M7.5 死者一人とのこと。倉敷近在では誰も覚えてないが、一緒に建てかけの弥生住居で経験した岸本氏は、その強烈な揺れをよく覚えていた。

 人間も勝手なもの、自分の経験は昨日のように思い出すが、重要な歴史事実、あのベトナム戦争が、その日に停戦になったことは、日記を見て驚いたことだった。

 今回の住居址復元でも、多くの人が参加しているよう。同じ行事で、40年前も現在も、みなボランティアで進められている地域である。屋根の茅を集めるのが一番の大仕事に変わり無かったようだが、40年前には地元の高校生の力が大きかったと聞く。しかし今ではこの高校は閉校となっている。作業に参加する人は変わった。その地も「中世夢が原」の一角になっている。  

 歳月経過の差は、人により、場所により、場合によりなんとアンバランスなことか。復元は40年前と同様に進んでいるが。

 この住居址はもともと火災を受けた住居だった。そのため当時の人の暮らしを、よく伝えてくれた。次回はちょっと「中世」ではなく、1800年ばかり前を覗き見したい。

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